生まれ育った処の水

2008年01月08日

人類は生まれ育った処の水は大切にしなければなりません。
昔から旅行に行くと「水が変わる」といいます。それほど、普段の水が大切なのです。
水には、多くのミネラルが含まれていますが、地域により大きく異なります。
人々は、その地域の水に身体の形成が大きく影響をして現在に至っています。
それゆえ、身体のDNAも地域の環境(特に水)になれ親しんでいます。



最近の水道水は、塩素などの混入により有機物が化合物となり人体に有害な影響を与える「消毒副生成物」となり含まれています。
それに対応しての除去のために浄水器の設置では、このミネラル分も化合物としてすべて除去してしまいます。
また、異臭を放つカルキ臭も同様で、料理等の味に影響を与えています。

地域の水道水は、人体に必要なものでであるミネラルも充分に多種含んでいます。
その必要なもの=ミネラル分を人体に安全な状態で吸収することが本来は必要なことなのです。

・地域の水道水のミネラルを安全に吸収しやすい状態に戻す。
・身体に有害な消毒副生成物もなくする。
・地域の水道水を各家庭で、水が生まれた状態に戻す。
以上のことで、人々は地域の環境(水の分野)と共存することは必要であります。


地域の水道水を、水に含めまれるミネラル分を安全に身体に吸収できる方法とは・・・。
水を活性化させて、生まれた状態に戻すことです。
一度ご体験を・・・・・。すぐに実感できます・・・・・・・。


                                      参考 http://www.three-n.com/












  

Posted by ふじ・愛サン at 11:09Comments(0)TrackBack(0)健康の基準値の水

信楽の氏神様と陶器神社

2008年01月03日

新宮神社  信楽焼窯元散策路スタート場所



除夜の鐘の音を聞きながら地元の氏神様・新宮神社への参拝に出かける。お参り後に昨年からうわさになっている「たぬき神社」のことを思い出して、この新宮神社の由来を再確認をする事となる。
新宮神社は、スサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオヤマツミノミコトが祀られており、奈良時代の霊亀元年(715年)9月に建立の由緒ある神社であることを再認識をする。
                

信楽の町を一望できるのが、愛宕山である。北は飯道山、南東には笹ヶ岳、南には高畑山、西には遠く和束の山々、西から北西、北には信楽の背骨である朝宮からほそ原、長野、勅旨、黄瀬、その反対側は畑・田代地区である山並みが望めます。それらの山並みがすべて境界線、しがらきが盆地であることを証明と展望できます。


この愛宕山の山頂に陶器神社が祀られているのです。本来は愛宕神社であったのですが、大正年間に合祀され現在の陶器神社となって奉られているのであるが、驚くことに陶器業界関係者の参拝がなされていないことであります。今日3日の夕刻にお参りをさせて頂きましたが、参拝者の形跡は僅かでありました。
  現在の陶器神社   

これでは陶器神社の存在の意味が不明で、本来の由緒ある愛宕神社に戻すべき状態です。東京の芝の愛宕山・愛宕神社は信楽の愛宕神社の分霊を、徳川家康が慶長八年に幕府によって移し参らせたものであることは多くの歴史学者の肯定しているところであります。
                

信楽で陶器に携わっていて陶器神社への参拝がなされていないのは残念でなりません。形にのみとらわれるのではなく精神を見直すときでしょう。その一方、新宮神社の境内に「たぬき神社」とは言語道断の極みであります。
また陶器神社が誰のためにあるのか。イベントも必要ですがその前に行わなければならないことがあるのではないでしょうか。

信楽には負の遺産が一つ、二つ、三つはあります。


しがらきは大切でありますが、信楽は精神面からの再構築が必要です。
精神はそこに住む人から生まれるものです。






  

Posted by ふじ・愛サン at 21:40Comments(6)TrackBack(0)先人の知恵

しがらきの江戸から近世の政治の主役・多羅尾

2007年12月31日

日本の歴史に大きく関わった多羅尾

信楽において多羅尾の資料が非常に少ないのに驚きを隠せません。
江戸時代に多羅尾に代官屋敷があったこと
昭和28年8月14から15日にかけての局地的大雨での大水害
過去の資料があまりにも目にする機会がありません。


 当時の多羅尾小学校   繁明期のまだ「潤沢学校」 立派な建物でした。


江戸時代の多羅尾代官・多羅尾氏は、明治の廃藩置県の際に、そのまま信楽地区の窓口として要職に就かれたと聞いています。
その後、明治・大正・昭和初期まで多羅尾氏は信楽のためにご尽力を戴いたとも聞いています。その間においては、時には町のために資産を投げ出していただきました。しかし、ある時期をもって多羅尾氏は信楽を去られました。

今から15年ほど前に、所用で東京に行った際に、ある方のご紹介で多羅尾氏の現在の当主との対面となりました。
当時は、多羅尾氏が信楽にどのようなご尽力を頂いたかは全く理解していない状態での面談、かろうじて上記の内容ぐらいであり実情は全く知っていませんでした。
その方は、落ち着いた話し振りで、お父上や、ご祖父の多羅尾地区、信楽への思いを静かに話されました。その内容はご両人の書き溜め、今の日記を前にしてのことでした。

しばらくはその話を黙って聞いていましたが、無性に涙が溢れてきて全身が震えてきました。
残念ながら、今もその時のことは理解できていません。なぜなら小生が多羅尾地区・信楽での多羅尾氏の功績が理解出来ていないからであります。
現在の多羅尾代官屋敷跡も自由に見学することも出来ません。完全に多羅尾氏に関わることが歴史において断絶しているのです。

しからきを見つめ直す際に、このことを地元の方々にお聞き致したく存じます。
平成20年には・・・・・・・。      よろしくお願い致します。





  

Posted by ふじ・愛サン at 13:32Comments(4)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきはお茶の源流・朝宮の煎茶

2007年12月29日

日本茶の源流である、信楽・朝宮の煎茶



日本茶の最高級な産地が信楽・朝宮であります。
日本茶の本場は静岡が有名ですが、その静岡も本来は山間部の川根地区が本流でありました。しかしその後は新幹線、東名高速道路沿いの海辺に多くお茶畑が存在しています。最近は鹿児島、宮崎、、三重県が大量の生産地となっています。



朝宮のお茶は生産に関しては極限の状態で育てられています。標高400m、春には霜もおります。 よくお茶畑に、電柱上に羽がついたのを沢山たっているのを目にすることでしょう。あれは霜が降りないように大気に対流をおこすためであります。霜が降りてお茶の新芽にかかると葉はやけて枯れます、お茶は全滅状態。  実は私の祖父母も以前にお茶の栽培をしていました。春の急に冷えた夜はお茶畑のあちらこちらで焚き火をして霜が降りるのを防いでいました。その光景を手伝っていた事で覚えています。

極限の地で育ったお茶は、当然最高級であることを体験で覚えましたし、今でもその品質は認められています。

最近知ったのですが、煎茶が関東にないことで、関東では深蒸し煎茶があることです。違いはお茶の味が濃いことです。
私が東京にいた頃、東京のうどんのおつゆの色が濃くてうどん玉の白い色が見えなかったことです(群馬地方のうどんチェーン=やまだや・案山子のマーク)。 醤油においても、うすくち醤油が当時は東京にはありませんでした。
関西の味覚は繊細なものがあります。朝宮のお茶の本質はこれを育て受け継いでいるのです。


信楽の陶器の店、工房に伺うと、店主や陶工が、日本茶をふるまってくれます。
最近、私はこの「もてなし」で、その店や工房を判断しています。
 こころを持っての「もてなし」は煎茶のふるまいがある。信楽焼の道具で朝宮茶の煎茶を・・・。
 単なる商売での対応は「もてなし」がないか、コーヒーが出てくる。
信楽の「もてなし」、こころからの「もてなし」の本質がここにありました。
煎茶での「もてなし」は一夜では無理であるからです。 
一煎目、二煎目、三煎目との信楽の茶道・おもてなしのこころです。

もちろん、朝宮のお茶屋さんの「おもてなし」は、煎茶をふるまっていただけます。








  

Posted by ふじ・愛サン at 18:32Comments(9)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきの歴史の源・小原地区

2007年12月26日

しがらきの歴史、地理的に要となる小原地区

小原地区・大きくは二つの地域から成り立ちます。
一つは国道307号線沿いで西、ほそ原、中野。杉山で、もう一つは多羅尾への県道沿いで小川出、小川であります。対象の小原小学校が中間を結ぶ峠裾にあります。

小原地区は信楽において交通の要でもあります。
京都・和束から木津、奈良へ、 朝宮から宇治田原、京田辺、大阪・枚方へ、 朝宮から宇治田原、京都・宇治へ、 朝宮から大津・大石、石山へ、 畑から大津・大石、石山へ、 長野・雲井から大津・石山、瀬田へ、 長野・雲井から栗東へ、 長野・雲井から石部へ、 長野・雲井から三雲へ、 長野・雲井から水口、八日市、彦根へ、 長野・雲井から水口、土山へ、 神山から阿山、伊賀上野へ、 と 四方八方ではなく四方十方であります。

歴史的は大和朝廷の時代からで藤原家、近衛家、その後は江戸幕府での多羅尾家(代官)といつも政治の中心に関わってきました。



この小原地区。小原小学校の近くに美術陶板の里「大塚オーミ陶業(株)」があります。

   大塚オーミ陶業(株)のショールームより

 日本画壇の大家
 建築分野のテラコッタ・レリーフ
 衛星写真・同じもの琵琶湖博物館にもある。
 国会議事堂の大屋根。テレビで拝見して下さい。
 ここのトイレの洗面台お洒落。これも陶板です。

信楽焼の生産金額の半数を占めている建築部門、その8割が大塚オーミ陶業の美術陶板が占めています。全国の庁舎、芸術会館・市民ホール、図書館、などの建物のホールの壁面に掲げられている地域の題材を生かした陶壁がそれです。最近では徳島・鳴門に大塚国際美術館が開設、ヨーロッパの絵画が一同に観られ、絵画の集大成でもあります。この作品がすべて信楽で生まれたのです。

この美術陶板に人生を懸けてこられ今回、滋賀県文化功労賞(芸術文化・陶芸)の受賞おめでとう御座います。
この信楽の陶板は、私の先輩が人生をかけて取り組み、育て上げてこられた技術・産業であり文化なのです。作品の性格上一点一点が意味を持っていて、それゆえ製作においてすべてが異なったものづくりであります。ここにしがらきの感性やものづくりの精神の共通点がみられます。
これからも日本文化・工芸産業の先駆者としてのご活躍を、信楽の先導者としてお願いします。




  

Posted by ふじ・愛サン at 06:55Comments(9)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきのやきもの・長野・神山・江田・勅旨

2007年12月24日

信楽のやきもの

信楽焼散策路は、子供の頃の遊び場。
登り窯の中、庭先に高く積まれた火鉢、植木鉢の間を駆け回る絶好の遊び場所。


    最近の窯は耐火レンガですが、一昔前は赤土で今でも風情はあります。
    この窯の中は1250度以上の世界で、壁や天井に痕跡が残っています。

当時からものづくりにおいて、馴れ親しんでいた窯元が、いまは派手な挙動もなくものづくりに励んでいます。
雛人形、五月人形での「明山窯」。 親子で作陶に励む「みはる窯」。 穏やかな人間性での作陶の「杢仙(窯)」。 陶芸作家としての澤清嗣氏の窯。 茶陶作家の奥田英山氏の窯。 表情豊かな器類の「火のみがま」などは、それぞれがすばらしい感性で作品が生み出されています。
これらの各窯元での作陶は、先代や先々代(父から祖父から、またその前方の)からの考え方を忠実に守り、その時代時代の技術、感性でのものづくりは、豊かな人間性がそこからの作品に表れています。結果、それぞれの世界で認められています。 世代的には団塊の世代が中心であり、ものづくりは堅実な姿勢で陶器の世界への取り組みは敬服に値します。またそれらは作品にも表れています。
信楽焼の茶道の陶工には、先人として上田直方氏、高橋春斎氏、谷清右衛門氏らが代表として今も君臨されています。


    何回も高温(鉄は溶ける温度)に耐えてきたため、その表面は大変な状態です。
    これが先人から受け継いできた魂なのです。しがらき・紫香楽・信楽の・・・・・・・。  

窯元散策路とは、登り窯が多く見られた坂道を歩くことで、その雰囲気を楽しむことが出来るところです。最近の陶器作づくりにおいては、基礎技術より形から作られているのでは・・・情報社会の結果。用をなすこととは異なります。
信楽で本当に良い、好いのも、を求める際には、事前に確認と準備をして、上記の工芸家・窯元、工房を訪れるのも、本当の信楽焼に出会えることでしょう。

また神山地区の、丸十製陶、器類を中心にインテリア製品まで、親子の感性で。
勅旨地区では若手で日本文化のこころで作陶の兄弟作家の「風の窯(名称?)」。 若い女性の感覚での器類の作陶家の「宙(そら)工房」も、この地区の歴史と文化を受け継いでおり、訪れたい工房であります。
        
それ以外に職人としての陶工も数多く従事されています。 以上が信楽の風土を生かし未来に繋ぐものづくりであります。

  

Posted by ふじ・愛サン at 13:04Comments(2)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきの天平の守り神

2007年12月22日

しがらきの最北の飯道山・飯道神社



紫香楽宮の北東、そこは都の鬼門の方角、そこに飯道山・飯道神社があります。(都の配置では、その後の都・平安京・京都においては比叡山・延暦寺が それにあたります。)

飯道山の山頂にある、飯道神社は紫香楽宮があった宮町地区の方々が代々大切にこころして祀ってこられました。



私は、小学校のときに一度だけ登ったことがあります。
宮町地区からの登頂、登山口に鳥居。しばらくは木々の間をゆっくりと、その先は急な上り坂。一合目、二合目、三合目、と この表杭を目にしながら、ゆっくりと歩く、黙々と・・・・・。
八合目か九合目に井戸を発見、一息を、その奥に飯道神社が祀っている、まずはお参りから を。
その先で異様な光景に遭遇する。あたり一帯に石積みの何層もの平地が存在、何の跡かは解らないが気配を感じる。  その先が頂上、正面に大きな岩があり手前は小さな広場になっており休憩する。

修験道を体験のため、九合目か八合目まで下山。そこから時計回りで修験道に入る。 狭くて小さな道、木々の間を駆け抜けるて、しばらく行くとその先で大きな岩が道を塞いでいる。重なった岩の下のほうに小さな通り道が・・・。この通り道下っている、ようやくと通り抜け、飛び降りる?。  その後岩肌に沿って、右に回り込んだとき そこには大きな岩が目の前に立ちふさがる。呆然の状態。その岩は垂直に立っており、その表面は全くの壁状態。右側は上に急な山肌。左は上下急な山肌。  その時手の届くところまで鎖が一本見つかる。
後へは戻れない、この鎖に飛びつき岩壁を這い上がる。 そこは先ほどの頂上で見た大きな岩の裏側でした。
初めて山頂から 遠望や眼下を望む。 遠くには琵琶の湖面、その向こうに比良の山々。 眼下を望むと真下に登山口から続く平地がある。この山が修験道であったことが理解できます。


今年も登れませんでしたが、来春には、飯道神社への参拝。 あの石垣の存在とその内容の確認、修験道の内容を体験で確認。 無垢の時代でのこころ、その記憶の確認と、新しい発見を求めて・・・・・・・。




  

Posted by ふじ・愛サン at 16:20Comments(4)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきへの交通 しがらきからの流通

2007年12月21日



信楽への交通は、今では信楽高原鐵道が中心でありますが、
当時の国鉄信楽線は草津線貴生川駅からの0番線ホームから信楽へ。
「この坂、えらい坂、・・・・・・・・」と急なのぼりを真っ黒は煙を吐きながら機関車が・・・・・。
線路に滑り止めの砂を撒きながら。


信楽からは、信楽焼の火鉢を満載した貨車が10両以上、機関車に牽かれて・客車は付け足し。
全国津津裏裏へ・・・・・。


当時の信楽への公共交通手段は、
 国鉄信楽線、草津線経由・貴生川駅から信楽へ。
 京都河原町御池(市役所の斜め向かい)から石山駅経由で信楽へ、帝産湖南交通バス。 
 石山駅から南郷・大石経由での朝宮・信楽へ、国鉄バス。 
 奈良駅(今のJR奈良駅)から京都府最南の加茂経由での朝宮・信楽へ、国鉄バス。 
 三重県伊賀上野から阿山経由での神山・信楽へ、三重交通バス。 
 水口からは貴生川経由で信楽線平行で雲井・信楽へ、国鉄バス。
 すべての道は信楽へ、でもありませんがその状態でした。
 町内では小川・多羅尾方面、畑・田代方面、宮町方面と今では考えられない状態でした。
 
信楽駅構内では陶器製火鉢の出荷、貨車への積み込み作業で毎日大混雑。
バスはあらゆる方面への発着で駅前は混雑。想像できますか。

すべてが産業としての信楽焼が存在したからこそで、ものがうごけば、お金がうごく。お金がうごけば、人が集まる。その結果であったそうです。

町中の窯元には従業員が多く働いており、窯元の大将(親方)は町の勇姿であり町中に活気が溢れていました。その結果の商店街も十二分に潤っていたのです。
今ではやきものは、ろくろと焼成窯さえ準備すれば、どこでも陶器工房で都会の真ん中でも。ロケーションは都会の陶房の方が有利であり表通りでの販売は、産地よりお客の情報も的確であります。
今の信楽は「この町、えらいまち。どこ行く、この町・・・・・・・。」の状態。
本当にいいものを求める方は産地にはわざわざこられません、都会の町中の優れた感性のある方に頼ります。産地にこられるのは単に雑貨・雑器を求めて・・・。アウトレットを求めて・・・・・。

これからの信楽焼は、売れるものを造るのではなく、売るもの・売りたいものを創ることであります。
売るもの・売りたいものは都会の町中で披露するのです。
そこで暮らす方の優れた感性で判断を仰ぎます。
地方でのイベントで人を集める時代は終わっています。全国各地でその失敗した施設が氾濫しています。何時訪れても変わり映えのしない産地、観光地、信楽では魅力はありません。その為の産地のアウトレットイベントですか。

魅力ある製品・作品がいつも町中に溢れていれば、人は勝手に自然と集まってきます。









   

Posted by ふじ・愛サン at 09:51Comments(5)TrackBack(0)先人の知恵

しがらきの町 入り口

2007年12月19日

しがらきの不思議


  
  信楽の町は五つの地区から
    北から 雲井学区   742年聖武天皇が建都した紫香楽宮の伝承の地 
                  やきものの細工工芸の里(祭器、茶器、高台など発祥)
 

         信楽学区   信楽焼でおなじみの大物陶器の産地・長野地区
                                    (土間での使用・利用製品など)
                  小物陶器は神山地区が発祥の里 (器類などの発祥)
 

         小原学区   古くは近衛家の別荘地・天領の地 歴史の中心の地
                  信楽での交通の要所


         朝宮学区   815年嵯峨天皇の命での最古のお茶の産地
                  煎茶においては今でも全国一の品質と美味しさ
 

         多羅尾学区  江戸時代の直轄地(多羅尾代官=代官職唯一施主制)
                  一時は京の都から伊勢神宮までを治めていた


  これらが単に政治や歴史・産業であればそれで済みます。
  しかし この地における、しがらきはそれぞれが相互にに関わって現在に至っています。
  例えば、朝宮のお茶と信楽焼の茶壺  お茶の保存に最適=室町・桃山時代から
       朝宮のお茶と信楽焼の茶道具 茶道の道具の道具としての信楽焼 
                             信楽茶碗、うずくまる、水差し など
       紫香楽宮・甲賀寺と信楽焼   神事の精神で信楽焼での祭器の生産。
       多羅尾氏(代官)と信楽焼    徳川家の御用茶壺を始め。各藩主へ茶壷の生産納入。
  などと日本文化の精神でのものづくりが行われていました。

  明治の文明開化のときは、薬品(危険物)を入れるあらゆる品々を(ガラス製品が出来るまで)。
  特に絹製品は明治の輸出の主たるもので信楽焼の道具大きく貢献しました。
  明治から昭和の中ごろまでは暖房器具の代表であった信楽焼の火鉢を全国津津裏裏に送って
  いました。(都市ガス整備の完了まで)

  いつも政治や文化・産業の中心に関わっていました。信楽線はその為のもので客車は付け足し。


  写真は信楽町50周年記念誌を一部参照









 
       

    

Posted by ふじ・愛サン at 13:32Comments(5)TrackBack(0)先人の知恵

信楽の伝承と伝統

2007年12月18日



信楽焼の伝承の、そこには歴史にあります。
信楽焼の産地においては三つの地区に分かれます。
現在の中心となる長野地区・窯元散策路、登り窯が多く存在した地区。
神山地区、三重県伊賀焼と隣り合わせで産地としては信楽焼発祥の地であり、水上勉の「しがらき物語」のロケーションの地区。
勅旨・黄瀬地域、聖武天皇の紫香楽宮での地名と精神を受け継いでいる地区であります。

当初は同じ産地として活動をしていたのですが、江戸時代に生産利権の争いの後に色分けがなされました。
長野地区 茶壺・壺類、火鉢などを中心に大物陶器(土間での使用製品)
神山地区 土瓶、徳利、茶碗、小皿などを中心とした小物陶器
勅旨・黄瀬地域 祭器、徳利、茶碗、高台、油差などを中心とした細工陶器が生産されていました。

昭和30年代においてもこの色分けが通用していましたが、その後燃料や生活様式の変化に伴い、利権を主張した長野地域を主体に生産製品を変えざるを得ない結果となりました。


遠くは、鎌倉時代から、江戸や明治時代においては大阪、京都をはじめとする大都市での商売。その地場産業・伝統産業としての取り組みにおいて、生産地区によりその伝承技術には大きく異なります。その後において表面的なことは互いの交換に基づき取り込んでも、精神的な面までの理解にはほど遠いものが今でもあります。
一方、信楽焼の流通においては産地問屋が長野地区に集中しています。それゆえものづくりでの指示や依頼もこの地区の考え方が全体の統一となります。結果、神山地区や勅旨・黄瀬地区で受け継がれてきた精神においても今では途切れかけていますが、これらの地区でのものづくりは非常に繊細な技術や感性で、今もかすかに残っています。
産地全体としては、考えなければならない時期にきています。

信楽には本来作家と称する伝承も伝統もありませんでした。他の陶磁器産地は所轄の藩や幕府の御用窯として歩んできましたが、今になっては残念ながら信楽は常に天領であったので統括されるものがなかったためであります。
それゆえ現代の作家と称するのは殆どが一代での希望的名声であります。残念ながら作家として一代で作陶の技術と、文化の両方を学び得ることは伝統工芸作家としては至難の業でしょう。(前衛作家であれば可能性は充分にあるようです=信楽焼ではなく)
代々作家活動を家業としておられるところは日本の文化、信楽の文化を大切に作陶をされています。

先人の生活道具としても伝承文化や伝承技術に基づき、現代の文化、感性を表現するのが伝統であるはずです。伝承の内容を知ってこそ伝統が生まれるのではないでしょうか。
世間に理解され認められる伝統を、工芸を・・・・・・・。








  

Posted by ふじ・愛サン at 09:11Comments(5)TrackBack(0)先人の知恵