信楽の主役はどこに Ⅱ

2008年08月17日

信楽の主役は、「ものづくりに携わる人達」



信楽は「ものづくり」があっての信楽
信楽の先人達は何を思って「ものづくり」に励んだのか・・・。

信楽の「ものづくりの精神」「ものづくりの技術」「それらの融合」・・・。
いずれにしても 産業としての「ものづくり」をしている人々は、黙々と・・・・・。


昭和40年代に、まだファッションとの言葉が無く、流行で表現の時、
企業においても、意匠室、意匠課・部が主体だった時から、年2~3回のシーズン当初の発表に担当部所処は黙々と準備。
その作業は半年~一年前からの準備で始まるものでした。
予測が当たれば=あたり前、外れもすると=企業の存続にも影響。
これの繰り返し。区切りが付いても、休む暇も無く結果を見ずして次の予測と提案の準備。(実際には平行作業。)
「無」から「有」を生み出す楽しさがあった。

席を同じくする同期の仲間が、シーズンに入ると連日連夜、装飾に奮闘してくれていた。
その製品は、全国の百貨店の店頭に飾られ並ぶ。
残念ながら、それを殆ど実際に目にしたことが無い。
だが、装飾に奮闘してくれた仲間、営業に携わっていた仲間達から好評との評判の連絡が随時入る。
生産の担当者と祝杯を何度もあげたことだろうか。上司も大目に見てくれた・・・。
あのときの上司や経営幹部のこころの大きさが有難かった。感謝。

「企てる」「造る」「飾る」「売る」それらの間に仲間としての信頼があった。
休日は日曜のみ。残業は殆ど2時間は当たり前、追い込み時期には2週間ぐらい連日深夜に及ぶ。
あれが、なぜ出来たのだろうか。辛いと思ったことが殆ど無かった。
仲間もそれぞれの立場で頑張ってくれている、そう思うと前に進む事が苦痛でなく自然体で出来た。




文化的道具での感性の分野  生活道具での感性の分野  芸術・創作の感性の分野

感性力を前提に、無から有を生み出す、提案力、企画力が必要・・・・・。


いずれも、「井の中の蛙」にならずに、
      広い世界で、高い分野での評価を受けれる 技術と度量が必要。


信楽の「ものづくり 」とは、そのような精神力が必要。
それであって初めて、
    先人が残してくれた「しがらき=信楽」言葉を使うに値するのだろう。



その条件と、手段、結果などは 次の機会に・・・・・・・。




  

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信楽焼の伝統工芸技術 Ⅱ

2008年08月16日

信楽焼の伝統技術はどこに



六古窯は鎌倉時代からの地域産業としての陶器産地
その内容はすべて当時は生活用品の産地であった。
安土・桃山時代に茶陶への参画があり
江戸時代のなってその方向性が分かれて行った。
備前、丹波(立杭)、越前、瀬戸、常滑は藩の御用窯となり
磁器における有田、伊万里、清水、九谷、瀬戸と共に茶道や華道といった、
文化的技術の向上へと。

信楽はこの地が幕府直轄であったため、基本的には生活用品がそのまま焼かれていた。
信楽は 「生活雑器の産地」 が代名詞

信楽にも御用窯の分野があった。
徳川幕府を始め諸大名の御用茶壺がこの地で焼かれていた事である。
一つ目の先人の技術はここに隠されている。
のちに、葵のご紋が付いた道具も、ここ信楽でも・・・。

二つ目の知恵・技術は江戸末期から始まった、今で言うコラボレーションである。
道具としての本来の目的を完遂すべく、妥協を許さないものづくり。
これに対する追求力、その前提としての協力体制は、学ぶものが多すぎる。
目的に適わないものは、ものでも道具でもない。この厳しい精神が当時にあったようです。

三つ目のプライドを大切にした精神力の知恵と技術。
江戸時代に不幸にして、この地においての地域間の争いは裁判にまで及ぶ仲違い。
幸か不幸か、結果は新しい分野が生まれる。その技術は今でも語り草。

以上、これらは歴史から垣間見れる。

四つ目はここ信楽に生を受け、先人達の仕事を見ることでの内容
やきものとは、暦との「にらめっこ」
当時は1日15日のみが休日、殆どの窯元の年間予定が子供でも解った。

五つ目は現場からの知識と知恵
土小屋、からでる土埃、その裏にあるのも
成形小屋のご夫婦での作業、そこにある道具類
二つ並んだ登り窯、とその目的と内容
薬壺の存在と、施釉の多種の方法と効果・効率
窯焚きでの10~15日余の状況
などなど
窯出し後の、熱を待ったままの窯内の心地良さ

いずれも、今ではすべてを見たり、また教えを乞える経験者はどこに・・・。


これらがすべてが先人の知識であり、知恵である。
これを蔑ろにしてでは、
社会に必要とされる信楽のやきものは生まれない。

自己の戒めを持って、行動に移すとしましょうか・・・・・・・。



あとは、どの分野が残っているのか・・・・・・・。
提案とは、何か・・・・・・・。





  

Posted by ふじ・愛サン at 06:01Comments(2)TrackBack(0)先人の知恵

家紋の誕生

2008年08月15日

お盆に燈される提灯

 

仏壇がある家庭では、お盆になると玄関や縁側に提灯が吊るされます。
ちなみに、我が家では祖父、父、そして今は私が・・・・・。

提灯にはその家の家紋が入っています。 その家紋はどこで生まれたのでしょう。

一説によると、モチーフが草花であるのは歴史が古く、奈良時代に遡るものもあります。
公家や豪族から生まれたものが多いようです。ちなみに天皇家は菊の御紋

それに対して、抽象的なモチーフは、戦国時代の大名や豪族、武将から生まれています。
江戸時代の大名において、戦国以前の家系を持つものは、草花であり、戦国時代に家系を立ち上げた大名はそれ以外となっています。
多くの戦国大名は抽象的な創作家紋をそれぞれが作りました。

その後商人達も、草花以外のモチーフを使った家紋・商号を使い始めました。

家紋は、由緒あるもので、建物、家具、道具、衣類、お墓などなどで、
よく目にするのが、仏事が多いようで、葬儀やお墓であります。
次に目にするのが慶事であります。風呂敷や羽織・袴の正装。留袖での正装にも家紋は必要となります。

日本の家紋は家系の成り立ちを表しています。


英国にも家系において守るべきものがあります。家紋と称する紋章があります。エンブレムがそれです。
織物のタータンチェックもスコットランドの氏族模様であり、柄そのものが氏族のオリジナルでありました。

昭和30年代後半から40年代のファッションでトラディショナルファッションが主流となりました。このときにエンブレムや、タータンチェックが多く用いらたファッションが流行りました。
銀座の TEIJIN MEN‘S SHOP がその最先端であったでしょう。
石原慎太郎氏をはじめ、多くの文学者、有名タレント、音楽家、経営者に至るまで、各界の代表する著名者が愛用したブレザースーツはここで始まりました。
(格下のアイビールックは精神的若者ファッションでありました。)
当然、英国よりの直輸入(輸入ブランド)が主流であり、その品格は最高級と云えるものでした。
後に提携ブランドを導入され、大衆化が図られましたが・・・。

(昨今の高等学校を始めとするブレザースーツの制服はこの亜流ですが・・・。ものが違いすぎます。)




品格とは、家紋や紋章の精神と関連があります。

この精神を 今 再度見直す時となるでしょう。








  

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信楽の主役はどこに Ⅰ

2008年08月14日

信楽の産地としての主役はどこに



信楽が六古窯として生まれてこの方 主役は決まっていた。
家業としての信楽 そのこころは代々祖父や父から受け継がれる。

信楽は、「やきものづくり」が本業 元気になるには、このことがすべてであった。


日本経済においても同様のことが云える。
日本の近世から最近までは、勤勉さが代名詞であった。
世界で通用する日本とは、緻密で確実な「ものづくり」の精神。

「ものをつくる」で、はじめて「ものをうる」である。

教育方針や、経済構造において、これらが崩れる。
この四半世紀において理工系に変わり、文科系が主流となる。
ものを流す人や、サービス業、金融業分野ばかりが注目される世界に・・・。
ものを売るにも、ものを作る人がいなければ、国内で造る人がいなくなった状態では、
海外からの輸入に頼れなければならない。
日本社会においても、最近は慌てての理工系への転換が叫ばれ実行されている。

ここ信楽にも例外でない。
趣味や得意分野から、その延長の世界での仕事としての作陶家は多いが、
産業分野での作陶者や陶器業界への従事者は少ないままである。
結果 全国展開となる製品が少ない。

単品的な製品、作品では、趣味やおみやげの域を脱することが望めない。

勿論文化的工芸分野では、国宝や重文的価値の陶芸作家は、全国で一握り)


産地としての条件は、産地生産高である。
全国展開を目標とするなら、そこには多分野の従事者とその家族がいることである。
その結果で全国展開が可能となり、最低条件はここにあるのでは・・・。

信楽の「ものづくり」が元気になることが第一である。
「ものづくり」が元気になるとは、安心しての生活の保障がある。


単品的な製品、作品では、趣味やおみやげの域を脱することが望めない。
全国展開も考えることには限度がある。
勿論、観光客相手のおみやげでは、大きな数値は・・・。

内弁慶体質は、ひとまず休憩・・・・・。



信楽の「ものづくり」が元気になることが第一である。
「ものづくり」が元気になる方向性と方策は・・・。


もう少し深く、考えることとしよう・・・・・・・。





  

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しがらきの地名 Ⅲ

2008年08月08日

紫香楽の地名の語源



紫香楽の知名について
この地名は 当然 紫香楽宮 制定の際に付けられたものでしょう。

ここで注目は 聖武天皇により紫香楽宮が、この地に制定されたとき(742~745)には、
鬼門の方角に飯道寺があったということです。
飯道寺は飯道山の山頂に天台宗の山岳信仰として建立されたものです。(708開基)
この二つの間は直線距離で約2kmしかありません。ましてその間には遮るものもないのです。

紫香楽宮が建立、制定されたときに、この飯道寺が何らかの関連や影響があったことは、
歪めることが出来ません。


半世紀前まで、この地で薬草取りで生計を営んでいた人も居たそうです。
私の祖父母も年に数回野原や山々に行っていました。

最近当時のことを覚えている方々から話が聞けました。
その方は、黄瀬から大津市・上田上地区に至る、大戸川南側の道沿いに多く群生しており、薬草狩りを行なった、とのことでした。

  

薬草の代表格としての
「げんのしょうこ=現の証拠」「どくだみ=毒留め」「せんぶり=千振」が信楽の平地や山々にあったとのことです。
紫香楽の語源が、これらの方々に直接にはなしを聞いている際に、経験者として、この地で代々生活をしているからこそ、そこに生まれる発想があります。
今では途切れている先人達の生活の知恵が、遠い天平の時代から受け継がれているものなのか、この地で代々受け継がれているからこそ理解でき想像できるものです。


中でも日本古来の薬草はこの地に多くあったそうで、日本の薬草に関する書物にも記載資料は少ない。
先人の知恵からの想像は この地で生を受け、生活をしてきた者=先住民が感じ得ることでしょう。
紫香楽の地名は、このことが語源であることは間違いないと思われます。




  

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信楽焼の伝統工芸技術 Ⅰ

2008年08月06日

信楽焼の伝統技術はどこに



高度成長時代に各産業が生産地を後進国へ
ここ信楽においては、その時は私腹を肥やし遊興へ

今ここで信楽焼に元気が無いと云っても、即対策の効を得るものでは・・・。

信楽焼に職人が育っていない。
水が漏る花器 カビが生える器 食卓に傷がつく器など 
 信楽の先人の職人はこのようなものは造らなかった。
 結果 都会では工芸製品の分野では、信楽焼の評判は頗る悪い。
   産業分野としては、土間製品分野での生き残りが現状である。

本来の職人とは 土、成形、釉薬、焼成など一貫してのものづくりを行っているものである。

本来、各窯元においては、それらすべてを独自の技術で行なわれていたのであるが、
土小屋、精土機器、釉薬甕、目的に合った成形技術、焼成の技術などなど。


信楽には殆ど師弟関係や制度も無く、作家と称する人たちも基本的な総合知識の大切さ
ものづくりの基本的な先人達の知識、知恵をどのように習得するか、が問われるとき
その生産体制において、それぞれの方法が異なり、必要とするものも・・・。

生産体制の大別             知識・知恵の継承と責任
  産業としての企業体制         企業でのセクション及びオーナー
  産業としての家業体制         代々の施主
  伝統工芸としての家業体制      代々の施主・師匠

このいづれにも属さないものづくりは、何なのか 自己に問い合わす。

  
信楽のやきものの材料は、今や全国の何処ででも得られる・・・。
単なる感性といえば、消費地に近いほど有利さがある。
ガス窯の他、薪窯(穴窯など)においても、今や全国津々浦々に築かれている。

趣味の陶芸の世界の展開は、今や全国何処ででも・・・。
都心や消費地の近くにプロの陶芸作家や、窯元メーカーまでが存在している。

まして
伝統陶芸の六古窯において
備前、丹波(立杭)、越前、瀬戸、常滑においては、元来御用窯であったため、
今になっては、その文化を前提に頑固にブランドを守っているものがありますが、

対し信楽は、生活道具の産地としての歩みであったため、守るべき文化は少ない
それゆえ、信楽の土で、信楽の焼成方法で創られているものは全国にあります。

又、伝統技術の薪窯で焼かれた「信楽の名」が付いた優れて作品は、
古信楽の作風を前提に、奈良、鎌倉、伊豆を始めとして、
全国の優れた陶芸作家や窯で多く生まれている。
なぜなら、国宝級や文化価値の高い作品は殆どが都会の個人所有となっており、
時には模倣からの創造・創作も必要であり、すでにこれらで行なわれています。

 

ここ信楽で、古信楽で 室町・桃山時代の 紹鴎信楽、利休信楽、遠州信楽
              江戸時代の仁清信楽、空中信楽
地元でこれらの作品、実物を観られた人はいるのでしょうか。
道具としての完成度は非常に高く、その感性は最高です。
残念ながらこの地に作品は残っていません。

単に薪窯での焼成
使い勝手のこころが解らないままでの「やきもの」は、どこに向かうのか。
プロとセミプロ、仕事での作品と趣味の延長での作品 どこに違いを求めるのか・・・。

日々の疑問の根底を整理したいものです。
先人の歩んだ功績がそこにあります。
その知恵もこの地にあるはずです・・・・・。



先人の知識と知恵について 次回に・・・・・・・。





  
  
  


  

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しがらきの地名 Ⅱ

2008年08月04日

紫香楽の地名の語源



紫香楽宮があった天平時代は、人生も短いものであったでしょう。
体調が悪くなれば、当時は祈祷、手当て、薬草での対処だったのす。
衛生面においては云うの及ばず、
殆どの病気においては薬草に頼る他はなかったのでしょう。
今では考えられませんが風邪を抉らしての肺炎は、
一世紀前では不治の病でありました。
それゆえ、健康の維持、病に掛かれば薬草の効果は多大なものであります。

滋賀の地においての薬の歴史は、日本の真ん中、古代にさかのぼります。
淡海の蒲生野・船岡山に立つ石碑 
これが滋賀における最古の薬に関する記録でしょう。

「あかねさす紫野ゆきしめ野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる」
額田王が大海人皇子に送った有名な万葉集の一節で、
668年この地で行なわれていた「くすりがり」「薬草摘み」のときに詠まれたものです。

飯道寺山の山伏、修験者達はは、この「薬草」の知識と製法に長けていたと思われます。

このしがらきの地には、
半世紀前までは薬草が豊富にあり、実際に利用されていました。
薬草の国内で代表とされるものすべてがあり、
中でも日本古来のものが含まれています。
先人の知恵が、1200余年のときを代々において、最近まで受け継がれていたのです。
この地に生を受け、人生を送っていたから教えを受けたことでしょう。
代々 祖父母、父母からの伝達でありました。




甲賀地区(日野地区含む)の地場製薬生産高は、
最近の調査から信楽焼の5倍の数値なのです。
  地場製薬生産高       300余億円     
  参考として地場産業・信楽焼 60余億円 


先人の知恵がここにもありました。
諸先輩方の記憶を呼び戻して・・・・・。

続きは次回に・・・・・・・。


  

Posted by ふじ・愛サン at 07:44Comments(3)TrackBack(0)歴史と地域文化

二つのしがらき Ⅰ

2008年08月03日

しがらきの二つの顔



しがらきについての二つの顔
=二つのしがらき・地域活動において=  =二つのしがらき・信楽焼において=

      ここでは二つのしがらき・の区分けについて記載します。

一つは、信楽焼を主体とした信楽学区(長野地区・神山地区・江田地区)
信楽焼の産地の中心であり、必然的に信楽の行政、学校、交通の中心地となっています。
鎌倉時代からの六古窯から始まって、一時は全国への流通と展開と共に、信楽の政治経済を動かしていました。
残念ながら近年は、信楽焼に直接従事している人も極端に少なくなっています。
経済の中心とは程遠いものとなっていますが、政治と行政のみは今でも当時の栄華の部分を続けています。

産地として現状では斜陽傾向ですが、今後への新しい分野への展開、信楽の伝統を継続が進められています。
最近では観光産業としての信楽焼に関するイベント催事のみが開催されています。
今では、その催事が町の活性化として増え続けています。
年間で通してみれば月に一回以上の観光開催となるでしょう。




もう一つの信楽
       雲井学区(宮町、黄瀬、牧、勅旨地区など) 
       小原学区(柞原、中野、杉山、小川出、小川地区など)
       朝宮学区(上朝宮、下朝宮、宮尻地区)
       多羅尾学区(多羅尾地区)
この地域群は、日本の歴史に基づき、その時代時代に即して繁栄と文化・経済・産業を引き継いで今に至っています。

時代の順を追っていくと、
まずは雲井学区であります。天平時代の聖武天皇・紫香楽宮の地であります。大仏建立の地としての甲賀寺跡、今でも地名として、宮町そのものや、勅旨の名が残っています。742年の記載から始まっています。この地域の住民の方々は半世紀も前から紫香楽宮遺跡(現甲賀寺跡)の保存と整備に小学校の学童の時代から取り組んでいます。文化的市民活動の草分け的な存在です。

次に、朝宮地区になります。805年に近江・比叡山麓(現日吉神社付近)に茶の樹を植えられ、そのお茶を呑まれた。その際に近郊の、近江・信楽朝宮地区、丹波、播磨に産茶として茶の樹を植えられる。朝宮地区での産茶は815年の記載が残り、朝宮茶は唯一現在まで受け継がれています。

その後、多羅尾地区は、戦国時代の本能寺の変で、堺に居た徳川家康は、三河に逃げ帰った際に信楽で一夜を過ごした。信楽で当時の豪族が家康一行を匿い援護する。後にその候が報われ徳川幕府・家康から多羅尾氏に施主制の代官職が与えられ、明治まで幕府直轄で当地付近を治めるに至ります。

小原地区は、当時から今でも、当地の交通の要で、天平時代の奈良から紫香楽宮への通過点。家康が堺から三河への道中もこの地を通過しました。今でも、奈良、大阪枚方、京都宇治、大津石山、大津瀬田、栗東、湖南、水口・彦根、伊賀上野などと四方八方への道があります。

各地の歴史や文化を大切に地区ごとで新しい文化の展開が始まっています。



次の世代の信楽は、まずは現状を知ることで、得意分野と不得意分野が把握できます。
歴史においては地域間での中には醜い争そいもありました。その本質はこの二つのしがらきにおいて物事に際しての考え方が違う、頭の構造が基本的に異なっていることです。
それらのことを充分に理解したう上で   =前提で未来の創造と実現を・・・・・。=
まずは、己を知ることから始めなければなりません。
所詮 ここで生活をしている人々が、責任ある行動を必要とするから・・・・・・・。




これらの二つのしがらきの具体的な現状と 新しい展開の内容は次の機会で・・・・・・・。










  

Posted by ふじ・愛サン at 10:11Comments(0)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきの地名 Ⅰ

2008年08月02日

紫香楽の地名の語源



信楽の地名の語源
通常、地名の語源辞書には「繁木=しげき」や「柵=しがらみ」が記載されています。

「しげき=繁木」とは、この地が当時、多くの大木が繁っており、
紫香楽宮も建立や、紫香楽での大仏建立はもちろん
その後の奈良の東大寺建立の際に、この地の木材が運ばれ使用された、とのことです。
昭和20年代までは、あたり一面は禿山の状態でありました。その後植林が行なわれます。
  (隣り合わせの大津市の最南東の太神山はあまりにも有名です。)
この「繁木」が語源の説であります。

もう一つは「しがらみ=柵」でありますが、説の内容には、詳しいものがありません。

以上は、客観的に信楽の歴史や自然、その時代の文化を前提の説であります。




「しがらき=紫香楽」の地名の語源において、もう一つの説が考えられます。
それは、自然と人間の生命との関連であります。

人は生を受けても、古来は2,3日で果てることは、珍しくはありませんでした。
生後30余日もしくは100日でのお宮参りは、感謝とお披露目の行事であります。
7・5・3のお宮参りの行事も同様と聞いています。

天平時代は衛生面においても、無防備な状態であったはずです。
この地に一時に多くの人が紫香楽宮建立の建設 大仏建立の建設に数千人の人が集まる。
その時に何が起こるか。その対策は・・・。

そこで、紫香楽の地名が、解明される鍵が隠されています。
しがらきの自然の優位さとの共存が・・・・・。

続きは次回に・・・・・・・。





  

Posted by ふじ・愛サン at 06:03Comments(0)TrackBack(0)歴史と地域文化

信楽の明日

2008年07月27日

信楽の今日から


愛宕神社・秋葉神社そして陶器神社の祭事も23日にお参りも終え
愛宕山の火まつりも26日の夜に無事に終了・。

今年こそは飛躍の時にしなければ 
後は 神頼み でもありますが・・・。

信楽の特長を生かした、中・大物の陶器においては 水琴窟、照明器具 が市民権を持ち
従来の傘たてや、手水鉢、睡蓮鉢、陶製風呂桶などに加えられ
「陶&くらしのデザイン展2008」 での 
陶製冷風機 は気化熱を利用しての温度を下げることで 省エネルギーにおいて、
感じる感覚、見る感覚 の分野で注目されているようです。
信楽窯業技術試験場の担当スタッフの方々、ご苦労様でした・・・・・。  
   信楽展は  9月13日~10月6日信楽伝統産業会館

信楽の明日 あとは、もう一つのことをクリアーしなければかたちになりません。 
対象となる世間・世界をゆっくりと覘きに行ってみよう。高い敷居を乗り越えて・・・・・・・。
これに 一苦労するのかな。





  

Posted by ふじ・愛サン at 06:02Comments(4)TrackBack(0)しがらきの町