春雨の中の花
2008年04月17日
春の雨は暖かい

庭の木々も花たちも
日に日に表情豊かに進化して
毎年同じ繰り返しであるが
その表情は豊かに変わっている。

雨にぬれての色鮮やかさ
後は山つつじを待つに至るだけ。
庭の木々も花たちも
日に日に表情豊かに進化して
毎年同じ繰り返しであるが
その表情は豊かに変わっている。
雨にぬれての色鮮やかさ
後は山つつじを待つに至るだけ。
しがらきの桜
2008年04月12日
しがらきの桜

山間のしがらきの桜
明日の日曜日が見頃でしょう。
東京の桜便りから二週間、京都の満開便りから10日
それだけに、山間の桜が綺麗です。
このトンネルの下を中学生、小学生、高校生が時間差登校。
本来の春の風物詩です。
新年度において、桜に迎えられての登校 いいものですね。

一昔は5月初旬の地元氏神様の祭礼で御輿たまりにおいて満開でした。
ここにも温暖化の傾向が表れています。
山間のしがらきの桜
明日の日曜日が見頃でしょう。
東京の桜便りから二週間、京都の満開便りから10日
それだけに、山間の桜が綺麗です。
このトンネルの下を中学生、小学生、高校生が時間差登校。
本来の春の風物詩です。
新年度において、桜に迎えられての登校 いいものですね。
一昔は5月初旬の地元氏神様の祭礼で御輿たまりにおいて満開でした。
ここにも温暖化の傾向が表れています。
途絶えた・しがらきの文化Ⅱ
2008年04月04日
有史においてのしがらきの文化
第七次の文化
明治維新において絹織物の輸出が盛んになりました。蚕の繭から糸を取り出す鍋「糸
取り鍋」の生産が信楽で行なわれるようになり、全国の蚕産地で採用されました。
工業用薬品に関する瓶、器、道具類

第八次の文化
絹織物と同時にお茶の輸出も盛んな時代です。全国のお茶の産地から・朝宮のお茶
も輸出となりました。その際に工芸品であった茶器も多く輸出されていたようです。

第九次文化
生活雑器、水甕、壺類、食器、祭器、暖房火鉢・湯たんぽなど、あらゆる生活関連製
品が作り出されていました。

第十次の文化
信楽焼が建築の文化への進出。テラコッタと称する大型装飾タイル、大型特殊タイル
がそれです。滋賀県庁本館、国会議事堂の中央塔屋根瓦など。

第( )次の文化?
当時唯一の暖房器具であった火鉢の生産。大物陶器の産地であった信楽の特徴を発
揮 したのが火鉢。全国への出荷は全国の生産高の8~9割とされてました。
大きくひび割れた製品もセメントとエナメルでの修正で製品として出荷。「作れば売れ
る。」この言葉が出来たのもこの頃です。=都会では死語、山間の場所ではいまも残
っている。又信楽線はこの出荷のために開通されたのであります。
雲井駅からは材木が多く出荷されていました。当時は貨車への積み込みでにぎわっ
ていました。
この後は、ご存知の通りであります。
奈良、京都、大坂、東京、などと異なり政治や文化の中心とは程遠いですが、永い期間での継続は他に類をみません。
天平の時代に始まり、最近までは事あるごとに結果的に表舞台に拘ってきました。
明治初期までは、信楽にも文化と呼ぶに値するものがあったのですが、その後において物資が不足の経済状況で大量生産・大量販売に突入。他の地域には考えれない、一歩先を進んだのが信楽の経済推移であります。
先人の功績を知らない、知恵を伝承していない。それでは伝統も生まれるはずがないのです。
しがらきの文化は、雲井地区、朝宮地区、多羅尾地区、小原地区、信楽地区なのです。
しがらきの町には二つの町が存在します。= 次回のテーマ。
ものとは使われての事であり、使い手が見えないものは所詮それまでです。
今の時代は、日本文化・地域文化の再認識が必要なときです。
第七次の文化
明治維新において絹織物の輸出が盛んになりました。蚕の繭から糸を取り出す鍋「糸
取り鍋」の生産が信楽で行なわれるようになり、全国の蚕産地で採用されました。
工業用薬品に関する瓶、器、道具類
第八次の文化
絹織物と同時にお茶の輸出も盛んな時代です。全国のお茶の産地から・朝宮のお茶
も輸出となりました。その際に工芸品であった茶器も多く輸出されていたようです。
第九次文化
生活雑器、水甕、壺類、食器、祭器、暖房火鉢・湯たんぽなど、あらゆる生活関連製
品が作り出されていました。
第十次の文化
信楽焼が建築の文化への進出。テラコッタと称する大型装飾タイル、大型特殊タイル
がそれです。滋賀県庁本館、国会議事堂の中央塔屋根瓦など。
第( )次の文化?
当時唯一の暖房器具であった火鉢の生産。大物陶器の産地であった信楽の特徴を発
揮 したのが火鉢。全国への出荷は全国の生産高の8~9割とされてました。
大きくひび割れた製品もセメントとエナメルでの修正で製品として出荷。「作れば売れ
る。」この言葉が出来たのもこの頃です。=都会では死語、山間の場所ではいまも残
っている。又信楽線はこの出荷のために開通されたのであります。
雲井駅からは材木が多く出荷されていました。当時は貨車への積み込みでにぎわっ
ていました。
この後は、ご存知の通りであります。
奈良、京都、大坂、東京、などと異なり政治や文化の中心とは程遠いですが、永い期間での継続は他に類をみません。
天平の時代に始まり、最近までは事あるごとに結果的に表舞台に拘ってきました。
明治初期までは、信楽にも文化と呼ぶに値するものがあったのですが、その後において物資が不足の経済状況で大量生産・大量販売に突入。他の地域には考えれない、一歩先を進んだのが信楽の経済推移であります。
先人の功績を知らない、知恵を伝承していない。それでは伝統も生まれるはずがないのです。
しがらきの文化は、雲井地区、朝宮地区、多羅尾地区、小原地区、信楽地区なのです。
しがらきの町には二つの町が存在します。= 次回のテーマ。
ものとは使われての事であり、使い手が見えないものは所詮それまでです。
今の時代は、日本文化・地域文化の再認識が必要なときです。
途絶えた・しがらきの文化
2008年04月03日
有史においてのしがらきの文化
第一次の文化
紫香楽宮においての文化は、聖武天皇の遺品(正倉院)の宝物と、
紫香楽宮からの発掘資料から窺えます。

第二次の文化
藤原、近衛家の統治であった信楽の朝宮の地に、嵯峨天皇が、
日本最初の産地としてのお茶を植えられました。
第三次の文化
日本六古窯として、鎌倉時代に全国で当時六つの窯の産地が認められます。
種壺を主体に生活雑器がつくられていました。
第四次の文化
戦国時代に、武野紹鴎や千利休により茶の湯の確立と、信楽の生活道具の
壺などを茶席に侘びをして取り上げられる。
第五次の文化
徳川幕府の初期において幕府は信楽で御用茶壺の生産を命じました。
その後においては全国の大名からも茶壺の納入依頼に続いたそうです。」

第六次の文化
江戸時代の後期において、江戸や大坂の庄屋や商家から煎茶の文化が確立され、
日本茶は急激に日本中に広まりました。煎茶の茶器も必要とされました。
次回は明治以降の 「しがらきの文化」
第一次の文化
紫香楽宮においての文化は、聖武天皇の遺品(正倉院)の宝物と、
紫香楽宮からの発掘資料から窺えます。
第二次の文化
藤原、近衛家の統治であった信楽の朝宮の地に、嵯峨天皇が、
日本最初の産地としてのお茶を植えられました。
第三次の文化
日本六古窯として、鎌倉時代に全国で当時六つの窯の産地が認められます。
種壺を主体に生活雑器がつくられていました。
第四次の文化
戦国時代に、武野紹鴎や千利休により茶の湯の確立と、信楽の生活道具の
壺などを茶席に侘びをして取り上げられる。
第五次の文化
徳川幕府の初期において幕府は信楽で御用茶壺の生産を命じました。
その後においては全国の大名からも茶壺の納入依頼に続いたそうです。」

第六次の文化
江戸時代の後期において、江戸や大坂の庄屋や商家から煎茶の文化が確立され、
日本茶は急激に日本中に広まりました。煎茶の茶器も必要とされました。
次回は明治以降の 「しがらきの文化」
二つの信楽焼
2008年04月01日
信楽焼に、もう一つの信楽焼が・・・・
江戸時代に信楽の地において、ものづくりの利権争いがありました。
当時の利権争いのお裁きは大坂の地で行なわれたようです。
このような小さく狭い場所での権力争い、いつの時代でも利権を独り占めしたいものです。
結果 信楽の現在の中心地(長野地区)において茶壺や火鉢の独裁的に生産=大物陶器。
敗れた地(神山、雲井地区)においては、小物や細工物の生産となったのです。


もう一つの信楽焼がここにあったのです。歴史的には独自の流通体制があり、遠くは海外へも持ち出されていたそうです。
バブルの時代に大物陶器の不振により町内中心地の問屋がその分野へも手を出して、その結果大物陶器の流通に巻き込まれて繊細な部分を欠如してしまいました。現代の陶器製品にはその繊細な部分や品位・品格には程遠く、町中での現代の職人がつくる製品にはその部分は殆ど見受けられません。
かろうじて当時の製品に見受けられることができますが、基本的に生活用品であるが為骨董品としても多くは残っていませんし、数少ない貴重品としての先人の作品、それから一部追求を行なって当時を想像することが出来ます。
残念ながら現代の材料、設備や道具では再現すら不可能なのです。まして精神の分野は文化人がいない信楽では程遠いものがあります。
歴史の再認識は、現代の信楽の風土と人格が改めて理解できます。
行くところまで行けば、再構築は可能でしょう。その方面では利口な人々が周囲に多くおられます。それまでの楽しみとしましょう。
江戸時代に信楽の地において、ものづくりの利権争いがありました。
当時の利権争いのお裁きは大坂の地で行なわれたようです。
このような小さく狭い場所での権力争い、いつの時代でも利権を独り占めしたいものです。
結果 信楽の現在の中心地(長野地区)において茶壺や火鉢の独裁的に生産=大物陶器。
敗れた地(神山、雲井地区)においては、小物や細工物の生産となったのです。
もう一つの信楽焼がここにあったのです。歴史的には独自の流通体制があり、遠くは海外へも持ち出されていたそうです。
バブルの時代に大物陶器の不振により町内中心地の問屋がその分野へも手を出して、その結果大物陶器の流通に巻き込まれて繊細な部分を欠如してしまいました。現代の陶器製品にはその繊細な部分や品位・品格には程遠く、町中での現代の職人がつくる製品にはその部分は殆ど見受けられません。
かろうじて当時の製品に見受けられることができますが、基本的に生活用品であるが為骨董品としても多くは残っていませんし、数少ない貴重品としての先人の作品、それから一部追求を行なって当時を想像することが出来ます。
残念ながら現代の材料、設備や道具では再現すら不可能なのです。まして精神の分野は文化人がいない信楽では程遠いものがあります。
歴史の再認識は、現代の信楽の風土と人格が改めて理解できます。
行くところまで行けば、再構築は可能でしょう。その方面では利口な人々が周囲に多くおられます。それまでの楽しみとしましょう。

