しがらきの江戸から近世の政治の主役・多羅尾

2007年12月31日

日本の歴史に大きく関わった多羅尾

信楽において多羅尾の資料が非常に少ないのに驚きを隠せません。
江戸時代に多羅尾に代官屋敷があったこと
昭和28年8月14から15日にかけての局地的大雨での大水害
過去の資料があまりにも目にする機会がありません。


 当時の多羅尾小学校   繁明期のまだ「潤沢学校」 立派な建物でした。


江戸時代の多羅尾代官・多羅尾氏は、明治の廃藩置県の際に、そのまま信楽地区の窓口として要職に就かれたと聞いています。
その後、明治・大正・昭和初期まで多羅尾氏は信楽のためにご尽力を戴いたとも聞いています。その間においては、時には町のために資産を投げ出していただきました。しかし、ある時期をもって多羅尾氏は信楽を去られました。

今から15年ほど前に、所用で東京に行った際に、ある方のご紹介で多羅尾氏の現在の当主との対面となりました。
当時は、多羅尾氏が信楽にどのようなご尽力を頂いたかは全く理解していない状態での面談、かろうじて上記の内容ぐらいであり実情は全く知っていませんでした。
その方は、落ち着いた話し振りで、お父上や、ご祖父の多羅尾地区、信楽への思いを静かに話されました。その内容はご両人の書き溜め、今の日記を前にしてのことでした。

しばらくはその話を黙って聞いていましたが、無性に涙が溢れてきて全身が震えてきました。
残念ながら、今もその時のことは理解できていません。なぜなら小生が多羅尾地区・信楽での多羅尾氏の功績が理解出来ていないからであります。
現在の多羅尾代官屋敷跡も自由に見学することも出来ません。完全に多羅尾氏に関わることが歴史において断絶しているのです。

しからきを見つめ直す際に、このことを地元の方々にお聞き致したく存じます。
平成20年には・・・・・・・。      よろしくお願い致します。





  

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しがらきはお茶の源流・朝宮の煎茶

2007年12月29日

日本茶の源流である、信楽・朝宮の煎茶



日本茶の最高級な産地が信楽・朝宮であります。
日本茶の本場は静岡が有名ですが、その静岡も本来は山間部の川根地区が本流でありました。しかしその後は新幹線、東名高速道路沿いの海辺に多くお茶畑が存在しています。最近は鹿児島、宮崎、、三重県が大量の生産地となっています。



朝宮のお茶は生産に関しては極限の状態で育てられています。標高400m、春には霜もおります。 よくお茶畑に、電柱上に羽がついたのを沢山たっているのを目にすることでしょう。あれは霜が降りないように大気に対流をおこすためであります。霜が降りてお茶の新芽にかかると葉はやけて枯れます、お茶は全滅状態。  実は私の祖父母も以前にお茶の栽培をしていました。春の急に冷えた夜はお茶畑のあちらこちらで焚き火をして霜が降りるのを防いでいました。その光景を手伝っていた事で覚えています。

極限の地で育ったお茶は、当然最高級であることを体験で覚えましたし、今でもその品質は認められています。

最近知ったのですが、煎茶が関東にないことで、関東では深蒸し煎茶があることです。違いはお茶の味が濃いことです。
私が東京にいた頃、東京のうどんのおつゆの色が濃くてうどん玉の白い色が見えなかったことです(群馬地方のうどんチェーン=やまだや・案山子のマーク)。 醤油においても、うすくち醤油が当時は東京にはありませんでした。
関西の味覚は繊細なものがあります。朝宮のお茶の本質はこれを育て受け継いでいるのです。


信楽の陶器の店、工房に伺うと、店主や陶工が、日本茶をふるまってくれます。
最近、私はこの「もてなし」で、その店や工房を判断しています。
 こころを持っての「もてなし」は煎茶のふるまいがある。信楽焼の道具で朝宮茶の煎茶を・・・。
 単なる商売での対応は「もてなし」がないか、コーヒーが出てくる。
信楽の「もてなし」、こころからの「もてなし」の本質がここにありました。
煎茶での「もてなし」は一夜では無理であるからです。 
一煎目、二煎目、三煎目との信楽の茶道・おもてなしのこころです。

もちろん、朝宮のお茶屋さんの「おもてなし」は、煎茶をふるまっていただけます。








  

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しがらきの歴史の源・小原地区

2007年12月26日

しがらきの歴史、地理的に要となる小原地区

小原地区・大きくは二つの地域から成り立ちます。
一つは国道307号線沿いで西、ほそ原、中野。杉山で、もう一つは多羅尾への県道沿いで小川出、小川であります。対象の小原小学校が中間を結ぶ峠裾にあります。

小原地区は信楽において交通の要でもあります。
京都・和束から木津、奈良へ、 朝宮から宇治田原、京田辺、大阪・枚方へ、 朝宮から宇治田原、京都・宇治へ、 朝宮から大津・大石、石山へ、 畑から大津・大石、石山へ、 長野・雲井から大津・石山、瀬田へ、 長野・雲井から栗東へ、 長野・雲井から石部へ、 長野・雲井から三雲へ、 長野・雲井から水口、八日市、彦根へ、 長野・雲井から水口、土山へ、 神山から阿山、伊賀上野へ、 と 四方八方ではなく四方十方であります。

歴史的は大和朝廷の時代からで藤原家、近衛家、その後は江戸幕府での多羅尾家(代官)といつも政治の中心に関わってきました。



この小原地区。小原小学校の近くに美術陶板の里「大塚オーミ陶業(株)」があります。

   大塚オーミ陶業(株)のショールームより

 日本画壇の大家
 建築分野のテラコッタ・レリーフ
 衛星写真・同じもの琵琶湖博物館にもある。
 国会議事堂の大屋根。テレビで拝見して下さい。
 ここのトイレの洗面台お洒落。これも陶板です。

信楽焼の生産金額の半数を占めている建築部門、その8割が大塚オーミ陶業の美術陶板が占めています。全国の庁舎、芸術会館・市民ホール、図書館、などの建物のホールの壁面に掲げられている地域の題材を生かした陶壁がそれです。最近では徳島・鳴門に大塚国際美術館が開設、ヨーロッパの絵画が一同に観られ、絵画の集大成でもあります。この作品がすべて信楽で生まれたのです。

この美術陶板に人生を懸けてこられ今回、滋賀県文化功労賞(芸術文化・陶芸)の受賞おめでとう御座います。
この信楽の陶板は、私の先輩が人生をかけて取り組み、育て上げてこられた技術・産業であり文化なのです。作品の性格上一点一点が意味を持っていて、それゆえ製作においてすべてが異なったものづくりであります。ここにしがらきの感性やものづくりの精神の共通点がみられます。
これからも日本文化・工芸産業の先駆者としてのご活躍を、信楽の先導者としてお願いします。




  

Posted by ふじ・愛サン at 06:55Comments(9)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきのやきもの・長野・神山・江田・勅旨

2007年12月24日

信楽のやきもの

信楽焼散策路は、子供の頃の遊び場。
登り窯の中、庭先に高く積まれた火鉢、植木鉢の間を駆け回る絶好の遊び場所。


    最近の窯は耐火レンガですが、一昔前は赤土で今でも風情はあります。
    この窯の中は1250度以上の世界で、壁や天井に痕跡が残っています。

当時からものづくりにおいて、馴れ親しんでいた窯元が、いまは派手な挙動もなくものづくりに励んでいます。
雛人形、五月人形での「明山窯」。 親子で作陶に励む「みはる窯」。 穏やかな人間性での作陶の「杢仙(窯)」。 陶芸作家としての澤清嗣氏の窯。 茶陶作家の奥田英山氏の窯。 表情豊かな器類の「火のみがま」などは、それぞれがすばらしい感性で作品が生み出されています。
これらの各窯元での作陶は、先代や先々代(父から祖父から、またその前方の)からの考え方を忠実に守り、その時代時代の技術、感性でのものづくりは、豊かな人間性がそこからの作品に表れています。結果、それぞれの世界で認められています。 世代的には団塊の世代が中心であり、ものづくりは堅実な姿勢で陶器の世界への取り組みは敬服に値します。またそれらは作品にも表れています。
信楽焼の茶道の陶工には、先人として上田直方氏、高橋春斎氏、谷清右衛門氏らが代表として今も君臨されています。


    何回も高温(鉄は溶ける温度)に耐えてきたため、その表面は大変な状態です。
    これが先人から受け継いできた魂なのです。しがらき・紫香楽・信楽の・・・・・・・。  

窯元散策路とは、登り窯が多く見られた坂道を歩くことで、その雰囲気を楽しむことが出来るところです。最近の陶器作づくりにおいては、基礎技術より形から作られているのでは・・・情報社会の結果。用をなすこととは異なります。
信楽で本当に良い、好いのも、を求める際には、事前に確認と準備をして、上記の工芸家・窯元、工房を訪れるのも、本当の信楽焼に出会えることでしょう。

また神山地区の、丸十製陶、器類を中心にインテリア製品まで、親子の感性で。
勅旨地区では若手で日本文化のこころで作陶の兄弟作家の「風の窯(名称?)」。 若い女性の感覚での器類の作陶家の「宙(そら)工房」も、この地区の歴史と文化を受け継いでおり、訪れたい工房であります。
        
それ以外に職人としての陶工も数多く従事されています。 以上が信楽の風土を生かし未来に繋ぐものづくりであります。

  

Posted by ふじ・愛サン at 13:04Comments(2)TrackBack(0)しがらきの町

しがらきの天平の守り神

2007年12月22日

しがらきの最北の飯道山・飯道神社



紫香楽宮の北東、そこは都の鬼門の方角、そこに飯道山・飯道神社があります。(都の配置では、その後の都・平安京・京都においては比叡山・延暦寺が それにあたります。)

飯道山の山頂にある、飯道神社は紫香楽宮があった宮町地区の方々が代々大切にこころして祀ってこられました。



私は、小学校のときに一度だけ登ったことがあります。
宮町地区からの登頂、登山口に鳥居。しばらくは木々の間をゆっくりと、その先は急な上り坂。一合目、二合目、三合目、と この表杭を目にしながら、ゆっくりと歩く、黙々と・・・・・。
八合目か九合目に井戸を発見、一息を、その奥に飯道神社が祀っている、まずはお参りから を。
その先で異様な光景に遭遇する。あたり一帯に石積みの何層もの平地が存在、何の跡かは解らないが気配を感じる。  その先が頂上、正面に大きな岩があり手前は小さな広場になっており休憩する。

修験道を体験のため、九合目か八合目まで下山。そこから時計回りで修験道に入る。 狭くて小さな道、木々の間を駆け抜けるて、しばらく行くとその先で大きな岩が道を塞いでいる。重なった岩の下のほうに小さな通り道が・・・。この通り道下っている、ようやくと通り抜け、飛び降りる?。  その後岩肌に沿って、右に回り込んだとき そこには大きな岩が目の前に立ちふさがる。呆然の状態。その岩は垂直に立っており、その表面は全くの壁状態。右側は上に急な山肌。左は上下急な山肌。  その時手の届くところまで鎖が一本見つかる。
後へは戻れない、この鎖に飛びつき岩壁を這い上がる。 そこは先ほどの頂上で見た大きな岩の裏側でした。
初めて山頂から 遠望や眼下を望む。 遠くには琵琶の湖面、その向こうに比良の山々。 眼下を望むと真下に登山口から続く平地がある。この山が修験道であったことが理解できます。


今年も登れませんでしたが、来春には、飯道神社への参拝。 あの石垣の存在とその内容の確認、修験道の内容を体験で確認。 無垢の時代でのこころ、その記憶の確認と、新しい発見を求めて・・・・・・・。




  

Posted by ふじ・愛サン at 16:20Comments(4)TrackBack(0)しがらきの町

いにしえのしがらき

2007年11月16日

しがらき 紫香楽 信楽


   前回の新聞発表より 発掘調査が進み、さらに規模が大きくなっている。

  紫香楽宮発掘調査25周年記念展  11月10日より25日まで 12・19日休館
                         宮町会館で(甲賀市信楽町宮町1155)

        会場内での資料 販売 400-
   会場内の運営は地元の方々を行っているのでいろいろな話が聞けました。


        展示物の土器・陶器類  薄くて精巧 今の信楽焼では見かけません・・・・・・・。


        当時の貨幣も見つかっている。建物の釘も

  関連講座 ふるさとの歴史を学ぶ歴史講座  11月18日 13:00~16:00
                              黄瀬会館「ささら」(甲賀市信楽町黄瀬3023
               講師 栄原永遠男氏(大阪市立大学大学院教授)
         
  宮町遺跡・甲賀寺遺跡 現地説明会開催   11月23日  11:30  14:30の二回  
               問い合わせ 歴史文化財課 0748-86-8026


先人の偉大さに、ただ感嘆

しがらきを説明するとき、いくつもの顔があることを発見。

天皇皇后両殿下がお越しになられた、紫香楽宮の紫香楽
   聖武天皇が742年に都を開かれ、大仏の建立(現在の東大寺・大仏)の命を発せられた紫香楽
両殿下が途中に立ち寄られた、たぬきのやきものがお迎えをした、信楽焼の信楽
   日本六古窯の一つである、全国的に知られているやきものの町、信楽

遠くは藤原一族、その後近衛家の領地、徳川時代の多羅尾家代官職、文化の通過のしがらき
日本最古の日本茶の産地で、国内最高クラスの煎茶の産地としての、朝宮茶のしがらき
  

Posted by ふじ・愛サン at 09:30Comments(9)TrackBack(0)しがらきの町

早朝の信楽・愛宕山

2007年11月08日

信楽焼の町・・・早朝の展望


陶器の町・信楽  その中心に位置するのが、愛宕山
信楽焼の窯元散策路を歩くと、どこからも見えているのが愛宕山です
いつも 信楽のやきものを見守って鎮座しています。
その山頂には陶器神社が祭られています。
本来は愛宕神社として祭られていたのですが、
大正時代に合祀されたものです。


       参道                        説明文書が陶板で

私たちが小学校のときは、7月23日宵宮24日に松明が奉納されていました。
松明の奉納に際して、子供たちも事前にちょうちん行列をした記憶があります。
陶器に従事していた人はもちろん、家族、子供も奉納の精神でお参りしました。


  最後の階段 16段 71段 65段      本殿に
  キツイ・・・・

最近は観光化してイベントとしての行事となっていますが、
火まつりの起源や儀式の主旨、陶器の生産に従事しているものすべてが、
火の有難さに感謝をするための松明の奉納であったことを、
陶祖、先人に供養をする、感謝と祈願の儀式であることを再認識をする必要があります。


  今 日の出     気持ちいいよ・・・

那智の火まつり。鞍馬の火まつり。その他全国の火のまつりにおいて、
一時は観光化されましたが、すべて儀式として奉納されています。決められている日に。
                 一部 信楽観光協会会長の所見より・・・・・・賛同します。

設備器具が壊れています。陶器神社奉賛会の方、信楽焼の生産に従事されている方
全く参拝されていないのではないのかな。・・・・・・・参道が荒れ放題・危ないですよ。
普段からの感謝のこころ大切ですよ。  (窯焚きの際の奉納は個人営利で~す。)


帰り・下山は東から
こちらは 車で登れます・九合目まで。最後は徒歩・車椅子でも充分(介護が必要)。


   アット ビックリ 巨人の足跡 
   大人の靴だよ。                  誰か、この木名前おしえて~


 観光や所用でこられるかたがた、一度はのぼる価値がありますよ。

 地元の方は感謝のこころで月に一度はお参りをしましょう。                      
  

Posted by ふじ・愛サン at 10:15Comments(0)TrackBack(0)しがらきの町