途絶えた・しがらきの文化Ⅱ
2008年04月04日
有史においてのしがらきの文化
第七次の文化
明治維新において絹織物の輸出が盛んになりました。蚕の繭から糸を取り出す鍋「糸
取り鍋」の生産が信楽で行なわれるようになり、全国の蚕産地で採用されました。
工業用薬品に関する瓶、器、道具類

第八次の文化
絹織物と同時にお茶の輸出も盛んな時代です。全国のお茶の産地から・朝宮のお茶
も輸出となりました。その際に工芸品であった茶器も多く輸出されていたようです。

第九次文化
生活雑器、水甕、壺類、食器、祭器、暖房火鉢・湯たんぽなど、あらゆる生活関連製
品が作り出されていました。

第十次の文化
信楽焼が建築の文化への進出。テラコッタと称する大型装飾タイル、大型特殊タイル
がそれです。滋賀県庁本館、国会議事堂の中央塔屋根瓦など。

第( )次の文化?
当時唯一の暖房器具であった火鉢の生産。大物陶器の産地であった信楽の特徴を発
揮 したのが火鉢。全国への出荷は全国の生産高の8~9割とされてました。
大きくひび割れた製品もセメントとエナメルでの修正で製品として出荷。「作れば売れ
る。」この言葉が出来たのもこの頃です。=都会では死語、山間の場所ではいまも残
っている。又信楽線はこの出荷のために開通されたのであります。
雲井駅からは材木が多く出荷されていました。当時は貨車への積み込みでにぎわっ
ていました。
この後は、ご存知の通りであります。
奈良、京都、大坂、東京、などと異なり政治や文化の中心とは程遠いですが、永い期間での継続は他に類をみません。
天平の時代に始まり、最近までは事あるごとに結果的に表舞台に拘ってきました。
明治初期までは、信楽にも文化と呼ぶに値するものがあったのですが、その後において物資が不足の経済状況で大量生産・大量販売に突入。他の地域には考えれない、一歩先を進んだのが信楽の経済推移であります。
先人の功績を知らない、知恵を伝承していない。それでは伝統も生まれるはずがないのです。
しがらきの文化は、雲井地区、朝宮地区、多羅尾地区、小原地区、信楽地区なのです。
しがらきの町には二つの町が存在します。= 次回のテーマ。
ものとは使われての事であり、使い手が見えないものは所詮それまでです。
今の時代は、日本文化・地域文化の再認識が必要なときです。
第七次の文化
明治維新において絹織物の輸出が盛んになりました。蚕の繭から糸を取り出す鍋「糸
取り鍋」の生産が信楽で行なわれるようになり、全国の蚕産地で採用されました。
工業用薬品に関する瓶、器、道具類
第八次の文化
絹織物と同時にお茶の輸出も盛んな時代です。全国のお茶の産地から・朝宮のお茶
も輸出となりました。その際に工芸品であった茶器も多く輸出されていたようです。
第九次文化
生活雑器、水甕、壺類、食器、祭器、暖房火鉢・湯たんぽなど、あらゆる生活関連製
品が作り出されていました。
第十次の文化
信楽焼が建築の文化への進出。テラコッタと称する大型装飾タイル、大型特殊タイル
がそれです。滋賀県庁本館、国会議事堂の中央塔屋根瓦など。
第( )次の文化?
当時唯一の暖房器具であった火鉢の生産。大物陶器の産地であった信楽の特徴を発
揮 したのが火鉢。全国への出荷は全国の生産高の8~9割とされてました。
大きくひび割れた製品もセメントとエナメルでの修正で製品として出荷。「作れば売れ
る。」この言葉が出来たのもこの頃です。=都会では死語、山間の場所ではいまも残
っている。又信楽線はこの出荷のために開通されたのであります。
雲井駅からは材木が多く出荷されていました。当時は貨車への積み込みでにぎわっ
ていました。
この後は、ご存知の通りであります。
奈良、京都、大坂、東京、などと異なり政治や文化の中心とは程遠いですが、永い期間での継続は他に類をみません。
天平の時代に始まり、最近までは事あるごとに結果的に表舞台に拘ってきました。
明治初期までは、信楽にも文化と呼ぶに値するものがあったのですが、その後において物資が不足の経済状況で大量生産・大量販売に突入。他の地域には考えれない、一歩先を進んだのが信楽の経済推移であります。
先人の功績を知らない、知恵を伝承していない。それでは伝統も生まれるはずがないのです。
しがらきの文化は、雲井地区、朝宮地区、多羅尾地区、小原地区、信楽地区なのです。
しがらきの町には二つの町が存在します。= 次回のテーマ。
ものとは使われての事であり、使い手が見えないものは所詮それまでです。
今の時代は、日本文化・地域文化の再認識が必要なときです。
途絶えた・しがらきの文化
2008年04月03日
有史においてのしがらきの文化
第一次の文化
紫香楽宮においての文化は、聖武天皇の遺品(正倉院)の宝物と、
紫香楽宮からの発掘資料から窺えます。

第二次の文化
藤原、近衛家の統治であった信楽の朝宮の地に、嵯峨天皇が、
日本最初の産地としてのお茶を植えられました。
第三次の文化
日本六古窯として、鎌倉時代に全国で当時六つの窯の産地が認められます。
種壺を主体に生活雑器がつくられていました。
第四次の文化
戦国時代に、武野紹鴎や千利休により茶の湯の確立と、信楽の生活道具の
壺などを茶席に侘びをして取り上げられる。
第五次の文化
徳川幕府の初期において幕府は信楽で御用茶壺の生産を命じました。
その後においては全国の大名からも茶壺の納入依頼に続いたそうです。」

第六次の文化
江戸時代の後期において、江戸や大坂の庄屋や商家から煎茶の文化が確立され、
日本茶は急激に日本中に広まりました。煎茶の茶器も必要とされました。
次回は明治以降の 「しがらきの文化」
第一次の文化
紫香楽宮においての文化は、聖武天皇の遺品(正倉院)の宝物と、
紫香楽宮からの発掘資料から窺えます。
第二次の文化
藤原、近衛家の統治であった信楽の朝宮の地に、嵯峨天皇が、
日本最初の産地としてのお茶を植えられました。
第三次の文化
日本六古窯として、鎌倉時代に全国で当時六つの窯の産地が認められます。
種壺を主体に生活雑器がつくられていました。
第四次の文化
戦国時代に、武野紹鴎や千利休により茶の湯の確立と、信楽の生活道具の
壺などを茶席に侘びをして取り上げられる。
第五次の文化
徳川幕府の初期において幕府は信楽で御用茶壺の生産を命じました。
その後においては全国の大名からも茶壺の納入依頼に続いたそうです。」

第六次の文化
江戸時代の後期において、江戸や大坂の庄屋や商家から煎茶の文化が確立され、
日本茶は急激に日本中に広まりました。煎茶の茶器も必要とされました。
次回は明治以降の 「しがらきの文化」
二つの信楽焼
2008年04月01日
信楽焼に、もう一つの信楽焼が・・・・
江戸時代に信楽の地において、ものづくりの利権争いがありました。
当時の利権争いのお裁きは大坂の地で行なわれたようです。
このような小さく狭い場所での権力争い、いつの時代でも利権を独り占めしたいものです。
結果 信楽の現在の中心地(長野地区)において茶壺や火鉢の独裁的に生産=大物陶器。
敗れた地(神山、雲井地区)においては、小物や細工物の生産となったのです。


もう一つの信楽焼がここにあったのです。歴史的には独自の流通体制があり、遠くは海外へも持ち出されていたそうです。
バブルの時代に大物陶器の不振により町内中心地の問屋がその分野へも手を出して、その結果大物陶器の流通に巻き込まれて繊細な部分を欠如してしまいました。現代の陶器製品にはその繊細な部分や品位・品格には程遠く、町中での現代の職人がつくる製品にはその部分は殆ど見受けられません。
かろうじて当時の製品に見受けられることができますが、基本的に生活用品であるが為骨董品としても多くは残っていませんし、数少ない貴重品としての先人の作品、それから一部追求を行なって当時を想像することが出来ます。
残念ながら現代の材料、設備や道具では再現すら不可能なのです。まして精神の分野は文化人がいない信楽では程遠いものがあります。
歴史の再認識は、現代の信楽の風土と人格が改めて理解できます。
行くところまで行けば、再構築は可能でしょう。その方面では利口な人々が周囲に多くおられます。それまでの楽しみとしましょう。
江戸時代に信楽の地において、ものづくりの利権争いがありました。
当時の利権争いのお裁きは大坂の地で行なわれたようです。
このような小さく狭い場所での権力争い、いつの時代でも利権を独り占めしたいものです。
結果 信楽の現在の中心地(長野地区)において茶壺や火鉢の独裁的に生産=大物陶器。
敗れた地(神山、雲井地区)においては、小物や細工物の生産となったのです。
もう一つの信楽焼がここにあったのです。歴史的には独自の流通体制があり、遠くは海外へも持ち出されていたそうです。
バブルの時代に大物陶器の不振により町内中心地の問屋がその分野へも手を出して、その結果大物陶器の流通に巻き込まれて繊細な部分を欠如してしまいました。現代の陶器製品にはその繊細な部分や品位・品格には程遠く、町中での現代の職人がつくる製品にはその部分は殆ど見受けられません。
かろうじて当時の製品に見受けられることができますが、基本的に生活用品であるが為骨董品としても多くは残っていませんし、数少ない貴重品としての先人の作品、それから一部追求を行なって当時を想像することが出来ます。
残念ながら現代の材料、設備や道具では再現すら不可能なのです。まして精神の分野は文化人がいない信楽では程遠いものがあります。
歴史の再認識は、現代の信楽の風土と人格が改めて理解できます。
行くところまで行けば、再構築は可能でしょう。その方面では利口な人々が周囲に多くおられます。それまでの楽しみとしましょう。
信楽焼・使う陶器と飾る陶器
2008年03月31日
信楽の陶器の再認識
本来の信楽焼は技術の粋の上に成り立つもの。


信楽焼の陶器において、その目的が市場で認められていません。
東京の都心において、信楽焼の製品の評価は極端に低いものであります。
その原因は、以前に信楽焼を購入したが使用状態において問題が多い。との苦情であります。
・テーブルに傷が付く
・食器などでは、カビが生えて不衛生となる。
・花瓶においては、長期に使用していると水が染み出す。
・少しの衝撃で欠ける。
・その他様々・・・。
信楽焼の生産技術の主体は、土間用製品の技術なのです。いまの各窯元はこれが基本であることは、その窯元の作業場・焼成窯付近をみれば、一目瞭然であります。
この内容が信楽焼のイメージであります。
その結果、信楽焼の名前は、今の都会の消費者には避けられているのです。これが現状です。
昨今、都会から信楽に編入して作陶をされている方が多く、当初は使用目的を明確に、上記の問題点の解決すべき作品もありましたが、残念ながらいつも間にか大勢に同調されているようです。
バブルの終末時代に民芸ブームがありました。結果陶芸においても、飾る陶器作品が持てはやされました。投資目的で価値を生み出す製品としての木箱入り製品がそれです。
(当時は町中に、髪の毛を伸ばし後ろで束ね作務衣を羽織り基本を蔑ろにした、俄作家が溢れていました。)
今もその要望はありますが、残念なことに骨董品の世界に当時の製品が多く出回って、市場においてだぶついているのもいるのが現状です。完成度が低く無名作家として文化価値が認められていない製品が、当然今の製品価格より安価で出ています。
ものづくりにおいて文化が解らない作家では無理です。他の産地と違うのは信楽焼には文化が無かったことです。御用窯でなく、雑器・生活道具を作っていたのです。
その生活道具が偶然に当時の茶道の文化人に認められただけで、それも種壺や何の変哲も無い生活陶器であります。その後において文化人が道具としてとして認められたのはあるでしょうか。又今は誰が文化として認めてくれるのでしょう。
文化としての信楽焼
薪での焼成、灰被りや緋(炎)色の作品は、今後の方向として、何かが欠けていることを作家自身が気が付かなければ、文化としての未来が視えないでしょう。
本来は、信楽焼は日本文化として開花されるべきですが・・・・・・・・・。
そうでなければ、単に個展の繰り返しと、観光客相手の民芸陶器としての世界へとなるでしょう。
産業としての信楽焼
現代生活においてのライフスタイルに提案できるものづくり。
業界においては安価な製品が後進国から、産地においての不利の見極めでの有利性の追求。その結果での目的を見つけ出す必要があります。産業として・消費地での展開と販売が必要でありましょう。、地元でのお土産陶器・民芸陶器(陶芸)では続くのでしょうが・・・。
新名神の開通と信楽インターの開設で、来町者大きく増えていますが、その内容は従来と全く違っています。
信楽の先人が残してくれた文化、精神、技術などを大切にして、それの発展を考えることが必要です。都会から近くなりました。それは人が訪れて頂くのが便利になったことより、その情報が掴みやしくなったことです。
今は、いまあるものを売ること、今あるものを作ることより、
今後 何を提案すべく、どのように展開するのかを考えることの転機なのですが・・・。
その結果でのものづくりが必要ではないでしょうか・・・・・。
品位・品格がある製品を目指しましょう。
一般の方々のほうが見る目がありますよ・・・・・・・。
本来の信楽焼は技術の粋の上に成り立つもの。
信楽焼の陶器において、その目的が市場で認められていません。
東京の都心において、信楽焼の製品の評価は極端に低いものであります。
その原因は、以前に信楽焼を購入したが使用状態において問題が多い。との苦情であります。
・テーブルに傷が付く
・食器などでは、カビが生えて不衛生となる。
・花瓶においては、長期に使用していると水が染み出す。
・少しの衝撃で欠ける。
・その他様々・・・。
信楽焼の生産技術の主体は、土間用製品の技術なのです。いまの各窯元はこれが基本であることは、その窯元の作業場・焼成窯付近をみれば、一目瞭然であります。
この内容が信楽焼のイメージであります。
その結果、信楽焼の名前は、今の都会の消費者には避けられているのです。これが現状です。
昨今、都会から信楽に編入して作陶をされている方が多く、当初は使用目的を明確に、上記の問題点の解決すべき作品もありましたが、残念ながらいつも間にか大勢に同調されているようです。
バブルの終末時代に民芸ブームがありました。結果陶芸においても、飾る陶器作品が持てはやされました。投資目的で価値を生み出す製品としての木箱入り製品がそれです。
(当時は町中に、髪の毛を伸ばし後ろで束ね作務衣を羽織り基本を蔑ろにした、俄作家が溢れていました。)
今もその要望はありますが、残念なことに骨董品の世界に当時の製品が多く出回って、市場においてだぶついているのもいるのが現状です。完成度が低く無名作家として文化価値が認められていない製品が、当然今の製品価格より安価で出ています。
ものづくりにおいて文化が解らない作家では無理です。他の産地と違うのは信楽焼には文化が無かったことです。御用窯でなく、雑器・生活道具を作っていたのです。
その生活道具が偶然に当時の茶道の文化人に認められただけで、それも種壺や何の変哲も無い生活陶器であります。その後において文化人が道具としてとして認められたのはあるでしょうか。又今は誰が文化として認めてくれるのでしょう。
文化としての信楽焼
薪での焼成、灰被りや緋(炎)色の作品は、今後の方向として、何かが欠けていることを作家自身が気が付かなければ、文化としての未来が視えないでしょう。
本来は、信楽焼は日本文化として開花されるべきですが・・・・・・・・・。
そうでなければ、単に個展の繰り返しと、観光客相手の民芸陶器としての世界へとなるでしょう。
産業としての信楽焼
現代生活においてのライフスタイルに提案できるものづくり。
業界においては安価な製品が後進国から、産地においての不利の見極めでの有利性の追求。その結果での目的を見つけ出す必要があります。産業として・消費地での展開と販売が必要でありましょう。、地元でのお土産陶器・民芸陶器(陶芸)では続くのでしょうが・・・。
新名神の開通と信楽インターの開設で、来町者大きく増えていますが、その内容は従来と全く違っています。
信楽の先人が残してくれた文化、精神、技術などを大切にして、それの発展を考えることが必要です。都会から近くなりました。それは人が訪れて頂くのが便利になったことより、その情報が掴みやしくなったことです。
今は、いまあるものを売ること、今あるものを作ることより、
今後 何を提案すべく、どのように展開するのかを考えることの転機なのですが・・・。
その結果でのものづくりが必要ではないでしょうか・・・・・。
品位・品格がある製品を目指しましょう。
一般の方々のほうが見る目がありますよ・・・・・・・。
信楽の氏神様と陶器神社
2008年01月03日
新宮神社 信楽焼窯元散策路スタート場所


除夜の鐘の音を聞きながら地元の氏神様・新宮神社への参拝に出かける。お参り後に昨年からうわさになっている「たぬき神社」のことを思い出して、この新宮神社の由来を再確認をする事となる。
新宮神社は、スサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオヤマツミノミコトが祀られており、奈良時代の霊亀元年(715年)9月に建立の由緒ある神社であることを再認識をする。

信楽の町を一望できるのが、愛宕山である。北は飯道山、南東には笹ヶ岳、南には高畑山、西には遠く和束の山々、西から北西、北には信楽の背骨である朝宮からほそ原、長野、勅旨、黄瀬、その反対側は畑・田代地区である山並みが望めます。それらの山並みがすべて境界線、しがらきが盆地であることを証明と展望できます。



この愛宕山の山頂に陶器神社が祀られているのです。本来は愛宕神社であったのですが、大正年間に合祀され現在の陶器神社となって奉られているのであるが、驚くことに陶器業界関係者の参拝がなされていないことであります。今日3日の夕刻にお参りをさせて頂きましたが、参拝者の形跡は僅かでありました。
現在の陶器神社
これでは陶器神社の存在の意味が不明で、本来の由緒ある愛宕神社に戻すべき状態です。東京の芝の愛宕山・愛宕神社は信楽の愛宕神社の分霊を、徳川家康が慶長八年に幕府によって移し参らせたものであることは多くの歴史学者の肯定しているところであります。

信楽で陶器に携わっていて陶器神社への参拝がなされていないのは残念でなりません。形にのみとらわれるのではなく精神を見直すときでしょう。その一方、新宮神社の境内に「たぬき神社」とは言語道断の極みであります。
また陶器神社が誰のためにあるのか。イベントも必要ですがその前に行わなければならないことがあるのではないでしょうか。
信楽には負の遺産が一つ、二つ、三つはあります。
しがらきは大切でありますが、信楽は精神面からの再構築が必要です。
精神はそこに住む人から生まれるものです。
除夜の鐘の音を聞きながら地元の氏神様・新宮神社への参拝に出かける。お参り後に昨年からうわさになっている「たぬき神社」のことを思い出して、この新宮神社の由来を再確認をする事となる。
新宮神社は、スサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオヤマツミノミコトが祀られており、奈良時代の霊亀元年(715年)9月に建立の由緒ある神社であることを再認識をする。
信楽の町を一望できるのが、愛宕山である。北は飯道山、南東には笹ヶ岳、南には高畑山、西には遠く和束の山々、西から北西、北には信楽の背骨である朝宮からほそ原、長野、勅旨、黄瀬、その反対側は畑・田代地区である山並みが望めます。それらの山並みがすべて境界線、しがらきが盆地であることを証明と展望できます。
この愛宕山の山頂に陶器神社が祀られているのです。本来は愛宕神社であったのですが、大正年間に合祀され現在の陶器神社となって奉られているのであるが、驚くことに陶器業界関係者の参拝がなされていないことであります。今日3日の夕刻にお参りをさせて頂きましたが、参拝者の形跡は僅かでありました。
現在の陶器神社
これでは陶器神社の存在の意味が不明で、本来の由緒ある愛宕神社に戻すべき状態です。東京の芝の愛宕山・愛宕神社は信楽の愛宕神社の分霊を、徳川家康が慶長八年に幕府によって移し参らせたものであることは多くの歴史学者の肯定しているところであります。
信楽で陶器に携わっていて陶器神社への参拝がなされていないのは残念でなりません。形にのみとらわれるのではなく精神を見直すときでしょう。その一方、新宮神社の境内に「たぬき神社」とは言語道断の極みであります。
また陶器神社が誰のためにあるのか。イベントも必要ですがその前に行わなければならないことがあるのではないでしょうか。
信楽には負の遺産が一つ、二つ、三つはあります。
しがらきは大切でありますが、信楽は精神面からの再構築が必要です。
精神はそこに住む人から生まれるものです。
しがらきへの交通 しがらきからの流通
2007年12月21日
信楽への交通は、今では信楽高原鐵道が中心でありますが、
当時の国鉄信楽線は草津線貴生川駅からの0番線ホームから信楽へ。
「この坂、えらい坂、・・・・・・・・」と急なのぼりを真っ黒は煙を吐きながら機関車が・・・・・。
線路に滑り止めの砂を撒きながら。
信楽からは、信楽焼の火鉢を満載した貨車が10両以上、機関車に牽かれて・客車は付け足し。
全国津津裏裏へ・・・・・。
当時の信楽への公共交通手段は、
国鉄信楽線、草津線経由・貴生川駅から信楽へ。
京都河原町御池(市役所の斜め向かい)から石山駅経由で信楽へ、帝産湖南交通バス。
石山駅から南郷・大石経由での朝宮・信楽へ、国鉄バス。
奈良駅(今のJR奈良駅)から京都府最南の加茂経由での朝宮・信楽へ、国鉄バス。
三重県伊賀上野から阿山経由での神山・信楽へ、三重交通バス。
水口からは貴生川経由で信楽線平行で雲井・信楽へ、国鉄バス。
すべての道は信楽へ、でもありませんがその状態でした。
町内では小川・多羅尾方面、畑・田代方面、宮町方面と今では考えられない状態でした。
信楽駅構内では陶器製火鉢の出荷、貨車への積み込み作業で毎日大混雑。
バスはあらゆる方面への発着で駅前は混雑。想像できますか。
すべてが産業としての信楽焼が存在したからこそで、ものがうごけば、お金がうごく。お金がうごけば、人が集まる。その結果であったそうです。
町中の窯元には従業員が多く働いており、窯元の大将(親方)は町の勇姿であり町中に活気が溢れていました。その結果の商店街も十二分に潤っていたのです。
今ではやきものは、ろくろと焼成窯さえ準備すれば、どこでも陶器工房で都会の真ん中でも。ロケーションは都会の陶房の方が有利であり表通りでの販売は、産地よりお客の情報も的確であります。
今の信楽は「この町、えらいまち。どこ行く、この町・・・・・・・。」の状態。
本当にいいものを求める方は産地にはわざわざこられません、都会の町中の優れた感性のある方に頼ります。産地にこられるのは単に雑貨・雑器を求めて・・・。アウトレットを求めて・・・・・。
これからの信楽焼は、売れるものを造るのではなく、売るもの・売りたいものを創ることであります。
売るもの・売りたいものは都会の町中で披露するのです。
そこで暮らす方の優れた感性で判断を仰ぎます。
地方でのイベントで人を集める時代は終わっています。全国各地でその失敗した施設が氾濫しています。何時訪れても変わり映えのしない産地、観光地、信楽では魅力はありません。その為の産地のアウトレットイベントですか。
魅力ある製品・作品がいつも町中に溢れていれば、人は勝手に自然と集まってきます。
しがらきの町 入り口
2007年12月19日
しがらきの不思議

信楽の町は五つの地区から
北から 雲井学区 742年聖武天皇が建都した紫香楽宮の伝承の地
やきものの細工工芸の里(祭器、茶器、高台など発祥)

信楽学区 信楽焼でおなじみの大物陶器の産地・長野地区
(土間での使用・利用製品など)
小物陶器は神山地区が発祥の里 (器類などの発祥)

小原学区 古くは近衛家の別荘地・天領の地 歴史の中心の地
信楽での交通の要所

朝宮学区 815年嵯峨天皇の命での最古のお茶の産地
煎茶においては今でも全国一の品質と美味しさ

多羅尾学区 江戸時代の直轄地(多羅尾代官=代官職唯一施主制)
一時は京の都から伊勢神宮までを治めていた

これらが単に政治や歴史・産業であればそれで済みます。
しかし この地における、しがらきはそれぞれが相互にに関わって現在に至っています。
例えば、朝宮のお茶と信楽焼の茶壺 お茶の保存に最適=室町・桃山時代から
朝宮のお茶と信楽焼の茶道具 茶道の道具の道具としての信楽焼
信楽茶碗、うずくまる、水差し など
紫香楽宮・甲賀寺と信楽焼 神事の精神で信楽焼での祭器の生産。
多羅尾氏(代官)と信楽焼 徳川家の御用茶壺を始め。各藩主へ茶壷の生産納入。
などと日本文化の精神でのものづくりが行われていました。
明治の文明開化のときは、薬品(危険物)を入れるあらゆる品々を(ガラス製品が出来るまで)。
特に絹製品は明治の輸出の主たるもので信楽焼の道具大きく貢献しました。
明治から昭和の中ごろまでは暖房器具の代表であった信楽焼の火鉢を全国津津裏裏に送って
いました。(都市ガス整備の完了まで)
いつも政治や文化・産業の中心に関わっていました。信楽線はその為のもので客車は付け足し。
写真は信楽町50周年記念誌を一部参照
信楽の町は五つの地区から
北から 雲井学区 742年聖武天皇が建都した紫香楽宮の伝承の地
やきものの細工工芸の里(祭器、茶器、高台など発祥)
信楽学区 信楽焼でおなじみの大物陶器の産地・長野地区
(土間での使用・利用製品など)
小物陶器は神山地区が発祥の里 (器類などの発祥)
小原学区 古くは近衛家の別荘地・天領の地 歴史の中心の地
信楽での交通の要所
朝宮学区 815年嵯峨天皇の命での最古のお茶の産地
煎茶においては今でも全国一の品質と美味しさ
多羅尾学区 江戸時代の直轄地(多羅尾代官=代官職唯一施主制)
一時は京の都から伊勢神宮までを治めていた
これらが単に政治や歴史・産業であればそれで済みます。
しかし この地における、しがらきはそれぞれが相互にに関わって現在に至っています。
例えば、朝宮のお茶と信楽焼の茶壺 お茶の保存に最適=室町・桃山時代から
朝宮のお茶と信楽焼の茶道具 茶道の道具の道具としての信楽焼
信楽茶碗、うずくまる、水差し など
紫香楽宮・甲賀寺と信楽焼 神事の精神で信楽焼での祭器の生産。
多羅尾氏(代官)と信楽焼 徳川家の御用茶壺を始め。各藩主へ茶壷の生産納入。
などと日本文化の精神でのものづくりが行われていました。
明治の文明開化のときは、薬品(危険物)を入れるあらゆる品々を(ガラス製品が出来るまで)。
特に絹製品は明治の輸出の主たるもので信楽焼の道具大きく貢献しました。
明治から昭和の中ごろまでは暖房器具の代表であった信楽焼の火鉢を全国津津裏裏に送って
いました。(都市ガス整備の完了まで)
いつも政治や文化・産業の中心に関わっていました。信楽線はその為のもので客車は付け足し。
写真は信楽町50周年記念誌を一部参照
信楽の伝承と伝統
2007年12月18日
信楽焼の伝承の、そこには歴史にあります。
信楽焼の産地においては三つの地区に分かれます。
現在の中心となる長野地区・窯元散策路、登り窯が多く存在した地区。
神山地区、三重県伊賀焼と隣り合わせで産地としては信楽焼発祥の地であり、水上勉の「しがらき物語」のロケーションの地区。
勅旨・黄瀬地域、聖武天皇の紫香楽宮での地名と精神を受け継いでいる地区であります。
当初は同じ産地として活動をしていたのですが、江戸時代に生産利権の争いの後に色分けがなされました。
長野地区 茶壺・壺類、火鉢などを中心に大物陶器(土間での使用製品)
神山地区 土瓶、徳利、茶碗、小皿などを中心とした小物陶器
勅旨・黄瀬地域 祭器、徳利、茶碗、高台、油差などを中心とした細工陶器が生産されていました。
昭和30年代においてもこの色分けが通用していましたが、その後燃料や生活様式の変化に伴い、利権を主張した長野地域を主体に生産製品を変えざるを得ない結果となりました。
遠くは、鎌倉時代から、江戸や明治時代においては大阪、京都をはじめとする大都市での商売。その地場産業・伝統産業としての取り組みにおいて、生産地区によりその伝承技術には大きく異なります。その後において表面的なことは互いの交換に基づき取り込んでも、精神的な面までの理解にはほど遠いものが今でもあります。
一方、信楽焼の流通においては産地問屋が長野地区に集中しています。それゆえものづくりでの指示や依頼もこの地区の考え方が全体の統一となります。結果、神山地区や勅旨・黄瀬地区で受け継がれてきた精神においても今では途切れかけていますが、これらの地区でのものづくりは非常に繊細な技術や感性で、今もかすかに残っています。
産地全体としては、考えなければならない時期にきています。
信楽には本来作家と称する伝承も伝統もありませんでした。他の陶磁器産地は所轄の藩や幕府の御用窯として歩んできましたが、今になっては残念ながら信楽は常に天領であったので統括されるものがなかったためであります。
それゆえ現代の作家と称するのは殆どが一代での希望的名声であります。残念ながら作家として一代で作陶の技術と、文化の両方を学び得ることは伝統工芸作家としては至難の業でしょう。(前衛作家であれば可能性は充分にあるようです=信楽焼ではなく)
代々作家活動を家業としておられるところは日本の文化、信楽の文化を大切に作陶をされています。
先人の生活道具としても伝承文化や伝承技術に基づき、現代の文化、感性を表現するのが伝統であるはずです。伝承の内容を知ってこそ伝統が生まれるのではないでしょうか。
世間に理解され認められる伝統を、工芸を・・・・・・・。
信楽焼の新しい世界への脱皮
2007年12月15日
信楽焼を、本来の伝統産業としての第一歩

信楽焼での工芸分野の確立
工芸製品分野においては使い手のことを十二分に考慮しての細心の注意を払ったものづくり。
エクステリア製品(土間)から、インテリア、テープルウェア分野への本当の意味での進出。
日本文化においての道具としての再提案。など
信楽焼のものづくりでからのイメージアップ
日本の伝統工芸や、やきものに興味を持つ、都心を主体にした消費者においては、残
念ながら次のようなイメージがぬぐえません。このことを素直に認めて次の段階に進ま
なければなりません。
・たぬき一辺倒のイメージからの脱皮
・低価格品とのイメージからの脱皮
・二級品感覚のイメージからの脱皮(家具などを傷める)(機能性を正確に持たせる)
地場産業への充実と再挑戦
信楽焼を全国内、海外で産地として認めていただくのであれば、その地域での消費が
必要です。その結果が信楽焼のイメージアップとなり、数字に結びつくのです。
単に、観光客を目的としたものづくり、では産業とは言えず、単なる観光目的です。それ
では人が多く集まるところで行えばよいものであります。
地場産業となれば、業界をあげての取り組みが必要です。まずは個々においての取り
組みが必要です。
目的の方向転換
信楽焼の責任を持てる伝統工芸作品・製品を外部(消費地)で展示と紹介を行う。消費
者の厳しい目で判断をしていただき、それで認められる商品・製品を送り出す事が必要
です。
今の信楽焼は、消費者(観光客)を信楽の中に呼び込み商品・製品を販売している。こ
れでは単なるお土産か、アウトレット感覚に過ぎません。それでよいのでしょうか。
そろそろ考え直しましょう・・・。今からでも遅くはありません・・・・・。一丸となって・・・・・・・。
信楽焼での工芸分野の確立
工芸製品分野においては使い手のことを十二分に考慮しての細心の注意を払ったものづくり。
エクステリア製品(土間)から、インテリア、テープルウェア分野への本当の意味での進出。
日本文化においての道具としての再提案。など
信楽焼のものづくりでからのイメージアップ
日本の伝統工芸や、やきものに興味を持つ、都心を主体にした消費者においては、残
念ながら次のようなイメージがぬぐえません。このことを素直に認めて次の段階に進ま
なければなりません。
・たぬき一辺倒のイメージからの脱皮
・低価格品とのイメージからの脱皮
・二級品感覚のイメージからの脱皮(家具などを傷める)(機能性を正確に持たせる)
地場産業への充実と再挑戦
信楽焼を全国内、海外で産地として認めていただくのであれば、その地域での消費が
必要です。その結果が信楽焼のイメージアップとなり、数字に結びつくのです。
単に、観光客を目的としたものづくり、では産業とは言えず、単なる観光目的です。それ
では人が多く集まるところで行えばよいものであります。
地場産業となれば、業界をあげての取り組みが必要です。まずは個々においての取り
組みが必要です。
目的の方向転換
信楽焼の責任を持てる伝統工芸作品・製品を外部(消費地)で展示と紹介を行う。消費
者の厳しい目で判断をしていただき、それで認められる商品・製品を送り出す事が必要
です。
今の信楽焼は、消費者(観光客)を信楽の中に呼び込み商品・製品を販売している。こ
れでは単なるお土産か、アウトレット感覚に過ぎません。それでよいのでしょうか。
そろそろ考え直しましょう・・・。今からでも遅くはありません・・・・・。一丸となって・・・・・・・。

